那覇の農連市場周辺の町並みが、刻々と変わろうとしている。野菜や肉、魚、日常雑貨もそろう沖縄の「台所」として親しまれてきた築60年余りの農連市場。年内にはガーブ川を挟んで市場北側の解体工事が始まる。神里原帰りの酔客を横目に、夜も明けぬうちからせわしなく開店準備に駆け回る人々、「相対売り」に乗じて花の咲くゆんたく-。人情味あふれる一帯が2018年度にも再開発で生まれ変わる。

多くの客、売り手でにぎわう農連市場=1962年5月22日、那覇市樋川

早朝から人が行き交う農連市場。その風景は開設当初とほぼ変わっていない=24日午前6時すぎ、那覇市樋川・農連市場

再開発の進む農連市場周辺

多くの客、売り手でにぎわう農連市場=1962年5月22日、那覇市樋川 早朝から人が行き交う農連市場。その風景は開設当初とほぼ変わっていない=24日午前6時すぎ、那覇市樋川・農連市場 再開発の進む農連市場周辺

 老朽化が進む市場は18年度、3階建ての駐車場付き建物に新設される。開南交差点から壺屋交差点へと下る市道の「開南線」沿いに造られる予定だ。

 3階建て建物が完成して、現店舗の移転が全て完了すれば、南側の建物も取り壊されていく。

 市場を囲む風景も曲がり角に差し掛かっている。

 開南交差点から与儀交差点に抜ける県道222号。仏壇仏具店が並ぶいわゆる「仏壇通り」。19~20年にも4車線化される計画で、周辺をにぎわせた店の立ち退きも進んでいる。仏壇通り沿いには、19階建てや13階建ての高層住宅もできる計画だ。

 また、ガーブ川を横切るように、国際通りから仏壇通りを結ぶ道路も誕生する。相次ぐ道路拡幅や再開発で、戦後に活況を誇った神原大通り周辺の「神里原」のきらびやかなネオンもいまではまばらになった。朝も昼も夜も、24時間営業で酔客やタクシー運転手を温かく迎える「丸安そば」も、新たな場所に移転する。

■商い半世紀超え深い絆 「ずっとみんな家族」

 多くの人が寝静まる真夜中に市場は動きだす。1953年の設立以来、当時とほぼ変わらない姿をみせる那覇市樋川の農連市場。トタン屋根の天井には雨漏りを防ぐベニヤ板や段ボールが敷かれ、建物を支える木造の柱は市場の長い歴史を知る。(我喜屋あかね)

 農連市場の開設時から働く金城初子さん(82)は午前2時から品出し作業に取り掛かる。ラジオをBGMに、腰を曲げ野菜を丁寧に並べていく。近くで店を構える女性らとのおしゃべりはほとんどうちなーぐちだ。「こうやって人と顔を合わせて話するの。楽しいでしょ」

 59年から友人の勧めで働き始めた最年長の新垣キクさん(89)は、午前5時に到着。定位置に座ると、ゴボウの千切り作業。深くしわが刻まれた手を黙々と動かす。「(周りは)みんな息子や娘みたい。『ゴボウさらす水入れて来て』とか、しょっちゅうお願いしてるさ」。2人は半世紀以上を市場とともに生きてきた。

 開設当初、閑古鳥が鳴く日も。金城さんは売れ残った商品を抱え、公設市場など人が多く集まる場所に売りに行った。追い返されることもあったが、自分を奮い立たせ、通い続けた。

 最盛期は復帰前。市場の前には、農家を乗せたバスが到着。客であふれ、しゃべる暇もご飯を食べる時間もない。いい売り場は取り合いで、女性同士でも大げんか。新垣さんは「戦争みたいだった」と笑う。

 81年には、私有地の明け渡しや売り場の一部移転などを求められ、店主らが猛反発。性別に関係なく、約1500人が座り込んだが同年12月、機動隊が投入され、ブルドーザーで市場が壊された。「自分たちの市場を守るって必死だった」と金城さん。翌日には、青空の下で農家が集まり、相対売りが再開された。

 「やめたいと思ったことは一度もない」と口をそろえる2人。市場で働く人や客はみんな家族も同然。毎日あいさつを交わし、いつもの時間に現れなければ、心配して電話をかける。金城さんは「農連には人の深みがある。これが私の誇り」とほほ笑む。

 市場は新しい施設への移転が決まり、それを機に店を閉める人もいる。新垣さんもその1人。「互いに支え合ってここまでやってきた。ここがなくなったとしても、みんな家族。この関係は変わらないさ」。