豊かな海に面し、半農半漁の集落として栄えた戦前の旧小禄村大嶺(ウフンミ)。沖縄戦前に小禄飛行場建設で土地を強制収用、さらに戦後は米軍施設、那覇空港・自衛隊施設として使用されている。古里に戻れなくなった大嶺の人々は、近隣に新集落を結成した。生活の一部だった海にまつわる文化やくとぅばの記憶を出身者に聞いた。(社会部・浦崎直己)

戦前の大嶺の風景や大嶺くとぅばについて語る高良光雄さん(左)と金城栄一さん=6日、那覇市田原

 旧小禄村大嶺は、現在の那覇空港の滑走路や西側の海岸にあった。集落の前には約3キロの海岸線が広がり、漁業が盛ん。関連する言葉がいくつもあった。字誌『大嶺の今昔』によると、「ンナイチー(貝の池)」は、貝類を蓄養した場所。「ザングムイ(ザン池)」という海域は、海草を食べに来たザン(ジュゴン)を捕まえたことが由来だ。

 2008年の字誌改訂で編集員だった字大嶺向上会の高良光雄さん(82)と金城栄一さん(76)。「大嶺だけの言葉もたくさんある。海に関する言い回しもあった」と口をそろえる。

 「サバニヌ イッスンシチャヤ グソードー(サバニの一寸下はあの世だよ)」。父親が漁師だった金城さんは、大嶺くとぅばで海の危険を聞かされた。

 戦前から伝わる「シタンバイ(漁を準備する)」。英語の「STAND BY(スタンバイ、待機する)」の発音や意味に似た言葉は、恩納村にも残る。1853年のペリー探検隊が言った英語に由来するとの説もある。琉球国時代、隣接する那覇港で、進貢船をえい航した大嶺の漁師も聞いた可能性がある。

 「大嶺(ウ〓ンミ)パーラー」。漁師かたぎの大嶺の人々の人柄を表す言葉だ。よくとれば「太っ腹」、悪く言えば「大ざっぱ、いいかげん」。高良さんと金城さんは苦笑いした。

 大嶺は旧小禄村で唯一、旧暦5月4日のユッカヌヒーにハーリーを行った。那覇のハーリーで「久米舟」のこぎ手として応援した漁師が、地元で始めたのが由来という。住民総出の盛大な年中行事で、勝負は真剣そのもの。「万が一を考えて、兄弟は同じ舟に乗せなかった」と先輩たちから聞いた。

 ハーリーに関しては、大嶺と他集落の文化の違いを伝える話がある。「ユッカヌヒーネー モーライラー(いらっしゃい)」。集落外の人を誘うと当日、家を訪ねてきた。大嶺の人々は海に繰り出しており、会えなかったという笑い話だ。

 砂浜が労働や遊びの場だった大嶺の青年たちは足腰が強く、集落対抗運動会では常に1位。「ウフンミンチュヌ マチャースンドー(大嶺の人は足が速い)」とよく言われた。

 戦後、大嶺の人々は、米軍那覇基地沿いの田原や宇栄原に新集落を造った。旧集落約350世帯から、約160世帯で再出発。80代の高良さんは、旧集落の当時を知る最後の世代。70代の金城さんは「父親や先輩たちから聞いたことしか分からない」と言う。

 大嶺自治会館を持ち、地バーリーも続けている。だが、生活に密着していた海は遠く、若い世代が「ウフンミンチュ(大嶺人)」の意識を持つのが難しい。

 文化や歴史を継承するために「大嶺の今昔」を映像化できないかという話も出る。「旧那覇飛行場用地問題」の解決策として整備される「ともかぜ振興会館(仮称)」の資料室で紹介する映像にしたいと、2人は話す。

 「戦争協力で古里を追われ、戦後は占領協力で古里に帰れない。この現実を風化させず、伝えないといけない」と口をそろえた。

※大嶺(ウフンミ)のフは小さなフ。