アルコールと化粧のにおいに包まれる一帯に、バラック造りの木造長屋を中心に140余りの店がひしめき合っていた。きらびやかなネオンに彩られた那覇市・神里原(かんざとばる)界隈(かいわい)の最盛期は1960年代後半。製糖を終えた沖縄本島南部の男たちが駆け付け一冬の稼ぎを散財した。はるばる遠方から娘を連れて「雇ってほしい」と頼んで回る親の姿もあった。それから半世紀。ネオンはまばらになったが、変わらないものもある。(社会部・篠原知恵)

ネオンがこうこうと灯る神里原の夜=29日午前1時51分、那覇市壺屋

神里原 1969年当時と現在

ネオンがこうこうと灯る神里原の夜=29日午前1時51分、那覇市壺屋 神里原 1969年当時と現在

 「大丸ヨコチョに、新天地ヨコチョでしょ、そして銀座ヨコチョ…」。神原社交飲食業協会の書記・会計を務めて55年を迎える伊佐辰子さん(88)。今は駐車場と化した「横町」のかつてのにぎわいを思い返す。

 女学校時代、寮生活をしていた那覇で戦火を生き延び、45年2月に本土へ疎開。戦後に沖縄へ戻り、父が農連市場の設立を手伝うことになったのを機に、中城村から那覇市樋川に引っ越した。協会で働き始めたのは60年ごろだ。それから半世紀にわたり、月に1度、会員費の集金で夜の街を回っている。

 印象深いのは日本復帰直前のクリスマスイブ、会員に頼まれてパーティー受付係を手伝ったときだ。「ジングルベル」の音色に誘われて男女が押し寄せ、何ドルか数えるのもままならず、1人1ドルの券がまたたく間に札束に化けていった。

 しかし華やかな夜も、相次いだ道路拡幅の立ち退きや火事で、徐々に勢いを失っていった。復帰前後に約140店あった会員店は22、23店に。働く女性も3分の1以下に減った。

 年上ばかりだったママも年下が多くなった-、とはいえ70歳を超えるママも少なくない。最近も腰を痛めてなじみのママが店を閉じた。「引退も考えるけど、『伊佐さんが辞めたら辞める』って言ってくれるママがいる限り、頑張るつもり。もう家族のようだから」

 神原大通りの拡幅工事で正面の長屋が立ち退き、道路に面することになった「おでん六助」の新崎洋子ママも、変わらない青色の木造長屋で客を待つ。クリスマスに、元知事の仲井真弘多さんが「ジングルベル」を口ずさみながら一人で訪れたこともある。現知事の翁長雄志さんも足を運ぶという名店だ。母の代から続く店を継ぎ、来年で50周年。「道がきれいになるのは仕方ないさ。さみしい、さみしいけど頑張って残ってるよ」

 立ち退きを迫られた店の女性たちを心配し、那覇市の栄町から「こっちに移ったら」と誘いもあった。だが多くが断り、神里原に残ることを決めたという。変わるものと変わらないもの。今宵も神里原にネオンは灯(とも)り続ける。

■かつての那覇中心地 開発再生へ

 沖縄の戦後復興の原点ともいわれた約500メートルの神里原大通り(現・神原大通り)。今でこそ社交街の印象が強いが、国際通りにその座を譲る1950年代前半まで「那覇の一大中心地」だった。大洋琉映や山形屋を中心に約300店がずらりと並んだ。

 「生活と職人の街だった」。通り沿いにある「国吉ミシン店」の息子、国吉宏昭さん(65)は当時を思い返す。幅員6メートルほどだった通りは道向かいの店主と気軽に話ができる距離。家具店、畳店、布団店、活版の印刷所…。多様な職人が腕をふるう通りだった。

 朝方も営業する食堂。競りを終えた男性たちのため朝8時でも店を開ける社交街。那覇劇場ではひいきの役者に野菜を投げる人たちの姿も。交通の拠点だった開南や牧志のバス停に各地から人が集まり、ものを買い求めていたという。

 だが50年代後半から、徐々に中心地は国際通りに移る。国吉さんが中学生になるころには、現・壺屋交差点から開南交差点を結ぶ開南線の整備拡張で立ち退きも始まり、職人で活況だった通りは「面影もないほど」一変。残された社交街が存在感を強めていった。

 それから半世紀余り。戦後の息づかいを残す農連市場一帯も、2018年度に再開発で生まれ変わる。青春時代を過ごした通りが変化し続けるさまに、国吉さんは「記憶が無くなるのと同じ」と表現する。戦後を彩った無数の物語が、風景と共に消えようとしているのかもしれない。