日米両軍の激烈な戦闘がやみ、降伏文書への調印によって正式に戦争が終わっても、沖縄に本来の意味の平和は戻ってこなかった。

 伊江島がその典型である。 旧日本軍は島の土地を接収し、本島北部からも労務者を大量に徴用して「東洋一」と言われる飛行場を建設したが、航空特攻から戦略持久へと方針を変えた第32軍司令部は、米軍上陸直前に飛行場を破壊してしまった。

 伊江島の戦闘は「沖縄戦の縮図」といっていい。住民を非戦闘員として保護するのではなく、「軍官民共生共死の一体化」という軍方針の下、男性を青年義勇隊、防衛隊として動員し、女性も救護要員として戦場に駆り出した。

 住民約3千人のうち半数以上が犠牲になったといわれる。ガマの中では「集団自決(強制集団死)」も相次いだ。

 島を占領した米軍は1945年5月、慶良間諸島の渡嘉敷島と座間味島に計2100人の住民を強制的に移住させ、日本軍が破壊した飛行場を修復し、対日侵攻のための基地として整備・拡張した。

 だが、それだけでは終わらなかった。朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた53年、米軍は住民の反対にもかかわらず銃剣とブルドーザーで強制接収に乗り出す。

 戦前、日本軍が要塞(ようさい)化した伊江島を、戦後は米軍が再要塞化したのである。

 飢えとマラリアによる犠牲者が相次いだことも沖縄の大きな特徴だ。

 とりわけ、八重山の島々は、極度の食糧不足に陥った上に、マラリアが大流行し、戦後も「飢え」と「死」が島の人々を脅かした。

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 飢餓とマラリアに苦しんでいた八重山の住民は45年12月15日、郡民大会を開き、独自の自治組織を立ち上げた。八重山支庁が戦争で機能停止状態にあったからだ。

 八重山自治会、通称「八重山共和国」の誕生である。

 八重山支庁が再建されるまでのわずか8日間の「共和国」ではあったが、「人民による人民のための政治」という民主主義の理念を戦後いち早く実現しようとした試みは特筆に値する。

 戦争の終わりは、沖縄にとって、新たな苦難の始まりでもあった。

 戦場の様相があまりにも凄惨(せいさん)だったため、戦争トラウマ(心的外傷)の症状を訴える人々が今もいる。沖縄戦は過去の過ぎ去った話ではないのである。

 サイパンに出稼ぎに行って戦争に巻き込まれ、九死に一生を得て帰郷した松田カメさんは、亡くなるまで嘉手納基地の爆音に悩まされ続けた。

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 戦災復興という視点から日本本土と沖縄を比べると、その違いが歴然とする。

 沖縄諮詢(しじゅん)会が設置された45年8月から、沖縄民政府が設置される46年4月までの約8カ月は「空白の時代」と呼ばれる。「戦災復興をめざした積極的な政策展開は何ら見られなかった」(琉球銀行調査部編「戦後沖縄経済史」)からだ。

 「広島平和記念都市建設法」が、憲法第95条に基づく特別法として住民投票を経て施行されたのは49年のことである。同法によって国からの特別補助や国有財産の無償譲渡の道が開かれた。

 だが、沖縄はある時期まで、本格的な復興支援から取り残された「忘れられた島」だった。復帰時のあらゆる分野の立ち遅れは戦後27年に及ぶ米軍統治がもたらしたものである。

 米軍という巨大な占領権力に対する住民の異議申し立ては、生存権の主張、という形で始まった。46年に賃金制度が実施され、経済活動が復活すると、住民は財産権を主張するようになる。

 48年12月に国連総会で世界人権宣言が採択されると、今度は基本的人権を前面に掲げ、米軍の主張する「勝者の権利」に対抗しだした。民主主義を生活の場から実践し始めたのである。

(本企画はこの項で終わります)