それではいよいよ泡盛の来た道、すなわち琉球での泡盛の歴史から述べることにする。「李朝実録」(朝鮮李朝の、太祖から純宗に至る27代にわたる実録)によれば、応永11(1404)年、李朝太宗より対馬の宗貞茂に「火酒(焼酎)」が贈られたとあり、これがわが国における蒸留酒としての最初の明記だとされている。しかし、その後のことを調べてみると、対馬、そこから約60キロ離れている壱岐で、明治以前に焼酎が造られたという事跡は全くなく、おそらく火酒が贈られただけのことだったのだろう。

 一方、琉球国における蒸留酒の存在も古いだろうといわれている。琉球は1420年に南蛮のシャム国(今のタイ)と交易が始まり、蒸留酒(この場合、「焼酎」という語はまだ出てこなく、安刺吉(あらき)酒、火酒、焼酎、南蛮酒などという名が出てくるので、ここでは暫定的に蒸留酒とした)が入ってきた可能性が強いからである。というのは、それより以前に南海における蒸留酒の製造はすでにあって、たとえば中国の元代(1271~1368年)に書かれた忽思慧撰の「飲膳正要(1330年)」には、蒸留酒に触れた部分があり、そこには「南蛮焼酎蕃名阿里乞(南蛮に阿里乞という焼酎がある)」とある。「南蛮」とは古く中国でインドシナ(今のベトナム、ラオス、タイ、ミャンマー、カンボジア)をはじめとする南方諸国のことを指しており、このことからも当時、その地域での蒸留酒の存在は明らかだからである。

 ところで当時日本は、中国(明)、朝鮮との交易も行っていたが、15世紀初め、倭寇(当時、朝鮮半島と中国本土沿岸での両国の貿易船を、日本の船が妨害略奪したことに対する呼称)を恐れて両国は日本の私貿易船の来航を全面的に禁じ、以後はいわゆる「勘合貿易」(明が倭寇や私貿易を抑えるために、室町幕府に与えた正式の使船の証しを介した限定貿易)が始められた。しかし、日本側は何らかの形で大陸との交易をもっと広めようとしたが難しい。ところが、琉球国と明との交易は順調であったので、幕府はその琉球国に頼る形で、そのうち南海諸邦-明-琉球国-日本という中継貿易が登場することになった。

 「琉球歴代宝案」(14世紀後半)によれば、当時琉球の商船隊は中国の福建を経てシャム、さらにスマトラ、カンボジア、安南(ベトナム)、マラッカ(マレーシア)、バターン(フィリピン)、スンダ列島(インドネシア)などの各港を訪れ、日本や明国産の物資を転売していた。また、当時の那覇港については「成宗実録」(1402~24年)の「尚真王」の頃に「江南人及ビ南蛮国人皆来リテ商販シ、往来絶ヘズ、我等皆南蛮人ヲ目観シタリ」と録されているように、南海諸国の貿易船が絶えず寄港して繁栄を極めていたことを伝えている。後の泡盛の造法が琉球に伝えられたのは、おそらくこの中継貿易が盛んに行われていた14世紀後半から15世紀と思ってよいだろう。そして、シャムから琉球国に蒸留酒が伝播(でんぱ)されたという決定的な証拠が、一冊の書物に出てくるのであるが、それは次回のお楽しみ。