薩摩藩の島津氏が琉球国との特殊関係を強化しようとする態度は天正期(1573~92年)に入って積極化した。そのため、薩摩の貿易商人は対琉球貿易をさらに強化し、琉球の酒が薩摩に入ってくる地盤を築き、その製造法が伝わりやすくなったと考えてよい。

 天正16(1588)年8月、島津義久は豊臣秀吉の命を受けて琉球国に「遣使献貢を行う可し」の旨を伝えると、翌17年8月に琉球王尚寧は献貢の使を秀吉の元に送ってきた。しかし、中央政権に対する公式使節の派遣はこれ1度だけで、その後なんの音沙汰もなく、島津藩としての顔が立たない。面白くない。そんな背景があって島津藩は、慶長7(1602)年に琉球国に対し、漂流船送還に謝意がないとの理由でとがめたり、さらに同9年、豊臣氏に代わった徳川氏に聘礼(へいれい)を欠いたのを詰(なじ)ったりしている。

 そして同11年、島津義弘は徳川幕府の意を受けて、途中で途絶えていた琉球中継による対明貿易の再開を促す旨の書状を送った。しかし、琉球国からは全く応答がないので、島津藩は徳川幕府の内諾を得て、ついに琉球派兵を決行した。慶長14(1609)年3月4日、薩摩の将兵3千余は樺山権左衛門尉久高を大将として、百余艘(そう)に分乗して薩摩国揖宿郡山川港を出船した。薩摩郡は1カ月で首里の王城を陥し、中山王尚寧以下重役三司官を俘虜(ふりょ)としている。

 この遠征で、薩摩軍はおそらく琉球酒を飲んだと思われるが、残されている戦記に泡盛を含めて酒の名はない。とにかく、薩摩藩の出した条件、すなわち旧琉球領のうち奄美諸島は島津藩の直轄とすること、残余の王領に対しては今後一定の現物貢納をすることを琉球国は承服して薩摩藩の遠征は終わったのである。その約束に従って、前述のように献貢品の中に琉球酒が入っていたわけである。

 こうして、薩摩藩は琉球を臣従させながら、一方では対明貿易を円滑に進めるために琉球国を独立国の形にしておいた。そしてこの遠征を機に、琉球の「清而烈(せいにしてれつ)」(清らかで火のように激しい)な酒は薩摩経由で本邦にもたらされたのである。

 琉球国の南蛮酒が薩摩に入ってしばらくすると、その酒を薩摩では「焼酎」という呼び方に変えた。今の鹿児島県大口市にある大口郡山八幡神社改装時(永禄2年、1559年)の建物の一部にその「焼酎」の2文字が見えるのである。こうして薩摩の焼酎は、それ以降、広く普及していくことになる。

 以上これまで、さまざまな角度から本邦への蒸留酒製造法の伝播(でんぱ)経路について考証してきたが、結論的に述べれば、シャム(今のタイ)から琉球国を経由して薩摩に伝わってきたというのが無理のない経路であろう。その後、薩摩で造られた焼酎は、試行錯誤を繰り返しながら肥後や日向、豊後などへと伝わっていったのである。

 なお、蒸留酒の南蛮酒がシャムから琉球に伝播してきたことをこれまで検証したが、その酒がシャムへはどこから伝わってきたかについても、筆者は現地調査を繰り返し、ついにそのルートが解明した。その蒸留酒の原点は、中国雲南省西双版納(シーソーバンナ)地方にあり、そこで発生した蒸留技術はメコン川を流下してビルマ(ミャンマー)を経てシャムにたどり着いたのである。その証拠は、さまざまな絵や写真によって明らかにしてきた。

 次回はいよいよ琉球の固有種「黒麹(こうじ)菌」の登場である。