■「公定力の震源」 オットー・マイヤー

 オットー・マイヤーは、今からほぼ100年前、立憲君主制を背景とするプロイセン憲法(1850年)、ビスマルク憲法(1871年)、そして当時世界で最も進歩的、自由主義的・民主主義的な憲法といわれたワイマール憲法(1919年)の体制下で「行政権」を研究。ドイツ最大の「論理的教条主義者」といわれるようになった。

彼の学説は、その後も、ワイマール憲法とは正反対のファッシズムを構築したナチス憲法(1933年)の下でも揺らぐことなく、君臨し生き続けた。ここから有名な「憲法変われど、行政法変わらず」という格言が生まれている。

 それでは、マイヤーの行政法はどのようなものであるか。

 端的に言うと、

・行政権は本質的に「偉大なる事実としての国家」に源泉を持つ万能なものである

・だが、それはあくまでも「法規」のもとにあり、その中で、行政権の優越的地位に基づき、国民を支配する。

この理論は、一方で立憲君主制の中では「法規」の名前で「君主」の裸の権力による暴走を抑え、他方でナチズムの下では国民の権利を守るために機能したといわれる。

 「公定力理論」はこのような全体の脈絡を背景に、行政権の神髄を語る骨太な理論として構築された。

 「行政処分は、権限ある行政庁が公益のため、自ら適法なものと確認して行う国家権力の発動であるから、裁判所の判決と同様、それ自体権威を有し、適法性が推定される」とする。

 そしてこの理論は、国側は戦前の美濃部達吉によって紹介され、戦後も田中二郎、塩野宏、そして、藤田宙靖など名だたる行政法学者(最高裁判所判事や文化勲章受章者など)に受け継がれてきたとし、これを、今回の代執行裁判で、最も早くかつ簡単に勝てる議論として、訴状の冒頭に持ってきたという次第である。

■公定力理論の変化

 しかし、現代日本は「立憲君主制国家」ではなく「国民主権の近代国家」である。国家の思想も制度も180度変わった。

 オットー・マイヤーの行政法はプロイセン憲法時のものであり、ここでの国家体制は「君主」が頂点にある。日本はこのプロイセン憲法をモデルに明治憲法を制定したが、君主は日本の場合「天皇」であった。明治憲法によると「天皇イコール神」であり、行政は神の僕として、神の言葉にしがって仕事を行う。それは「権威」あるものであり、原則として誤りはない。それゆえ、国民の行政に対する異議申し立ても厳格に制限される。このような体制の下では、マイヤー行政法の導入もある意味で至極自然なことであり、この行政法が天皇体制を支えた。

 しかし、昭和憲法の制定は革命的なものであった。権力者は、天皇から国民に転換されたのである。行政権は「偉大なる事実としての国家」から演繹されるものではなく、主権者たる国民から信託されたのである。行政権は、天皇ではなく内閣に属するものであり、かつ三権分立のもと最高で唯一の国会のコントロール下に置かれとして具体化された。そして、行政は国会の定める法律を実施するだけでなく、国民に対し、情報を公開し、裁判を含めて、様々な異議申し立てや参加を許容しなければならないとされるようになったのである。

 明治憲法から昭和憲法への転換はいわば「革命」とでもいうべき根源的な価値観の転換であり、マイヤーからみても、ワイマール憲法およびナチズム体制をもはるかに超える事態が出現している、と認識され納得されたであろう。したがって、このような行政をめぐる環境の大きな変化は当然のことながら「公定力理論」にも大きな変化を生み出す。

■公定力理論の終焉

 つまり、行政は、もはや「権威の象徴」ではなく、国民の信託の下での代行者である。また、行政行為は、裁判所内部での異議申し立てしか認めない「判決」と同じようなものではなく、いつでも、誰でも、どこでも、異議を申し立てることができる「意思表示」の一つとして考えなければならない。さらに「違法ではあっても取り消されるまで有効」というような不可侵で永久不変なものではなく、適宜、修正されたり、撤回されたりしなければならない。

 もちろん、行政の意思表示は、私人と私人との個別的な意思表示と異なり、一方的に、一度に多くの国民を対象として行われることがある。

道路建設を一つの意思表示としてみると、計画決定から事業決定、土地収用などへというように「連続展開」し、さらには民事や刑事裁判と異なって、行政に独特な行政不服申立・行政事件訴訟法があるなど、通常の市民間の意思表示とは異なる部分も多く持つが、国民の信託に基づき、それは適宜修正されなければならないという本質は変わりないのである。

 これは、行政の今日的な実態をみればさらに説得力を増す。

日本では戦後高度経済成長以降、行政は従来の消極的な権力行政(軍隊・警察そして税と個別的な許認可など)の執行から、福祉・公共事業、国際的な対応などへと国民の生活に全面的かつ広範囲に介入するようになった。それこそ、朝起きて就寝するまで、水道、電気、交通、教育や労働、介護、保険、そして医療から葬儀まで「行政」なしには、一日たりとも過ごすことができない時代となっているのである。

 ここではそれぞれの行政には触れないが、行政の仕事は、時代の変化を受けて変転極まりなく、絶えず「変化と修正」の連続を不可避としている。「違法であっても取り消されるまでは有効である」というような行政の固定化は、行政だけでなく、国民の生活全体を窒息させてしまうだろう。変転し、絶えず修正される行政には「間違い」も必然であり、国会・国民はもとより、内閣も既存の行政について絶えず、時代や国民の要望に応えて点検していかなければならないのである。

 重要なことは間違いを認めないことではなく、間違いを犯した場合の被害者に対する損害賠償などをルール化したうえで、直ちに修正することである。このような行政の実態と考え方は、公定力論に関する「学説」にも変更を迫るであろう。

 国側の引用した学説は、古くは明治憲法下のものから、戦後初期から中期にかけての学者のそれが多く、そこには残念ながら、ここまで見てきた行政概念の転換は、充分には反映されていないようである。

現にそれ以降の学者、例えば桜井敬子・橋本博之著「行政法」(第4版 弘文堂、2010年)は「公定力の根拠」として

「かっては、行政行為には適法性の確定が働くからであるという説明がなされた。この見解は、国家は正しい処分を行うものである公権力に対する信頼が背景にあり、一種の権威主義的な考え方があるといえる。

 しかし、行政が行う判断が正しいという論理必然性はなく、今日、このような国家権力に対する権威主義的な考え方を維持することはできない。現在、公定力は、過去の行政法理論の延長上に、脆弱な根拠に基づいてかろうじているにすぎない」

と断言していることに、注目すべきであろう。

 公定力理論は破綻したのである。