30年以上前のプロ野球広島カープの沖縄市キャンプ。高校生だった先輩記者は練習を終えて球場から出てくる選手を友人と待っていた。握手の求めを無視する選手もいる中、衣笠祥雄選手は立ち止まり、ユニホームの腰のところでわざわざ自分の手をふいて応じてくれた。飾らない人柄がにじむしぐさを今も忘れていないという

▼スポーツノンフィクションの名作、山際淳司さんの「江夏の21球」に印象的な場面がある。日本シリーズ最終戦、ピンチを招いた広島の抑えのエース江夏豊投手が、慌ただしく交代投手の準備を始めた自軍ベンチにいら立ち、冷静さを失う

▼異変を察知した衣笠一塁手が歩み寄り、「俺もお前と同じ気持ちだ。ベンチやブルペンなんて気にするな」と声を掛ける。江夏投手は「あれで救われた。集中力がよみがえった」と振り返る

▼「鉄人」でありつつ、内面は繊細で心の機微を知る人。その「気づき」がなければ伝説の名場面は生まれなかったかもしれない

▼衣笠さんは洋楽や映画にも造詣が深く、新聞は政治や経済の記事も毎日隅々まで読んだという。一野球人にとどまらない奥行き、器の大きさを感じさせた

▼解説者の仕事では決して選手を悪く言わず、理論的で愛情があった。指導者向きだったはずの資質を生かす機会がないまま旅立ったことが惜しまれる。(田嶋正雄)