「思(うむ)ゆらば里前(さとぅめ) 島とまいていまうれ(しまとぅめてぃいもり) 島や中城(なかぐしく) 花の(ぬ)伊舎堂」-。中城村伊舎堂にある「花の伊舎堂歌碑」は字のシンボルだ。1959年3月に琉球政府文化財保護委員会が建立した。作者や琉歌の詠まれた正確な時期は不明だが、歌詞に節をのせた「じっそう節」は民謡や古典音楽で広く親しまれている。歌碑を名称に取り入れ活性化したという老人会「伊舎堂花の会」のメンバーは「歌碑はわったーしまのふくいやさ(私たち伊舎堂の誇りだ)」と口々に言う。(中部報道部・勝浦大輔)

「歌碑は伊舎堂の誇り」と話す伊舎堂花の会の(前列右から)比嘉利夫会長、比嘉正子さん、(後列右から)安里清一さん、比嘉勇さん、比嘉俊雄さん=19日、中城村伊舎堂

そろいのユニホームには歌碑の詞が刻まれている

「歌碑は伊舎堂の誇り」と話す伊舎堂花の会の(前列右から)比嘉利夫会長、比嘉正子さん、(後列右から)安里清一さん、比嘉勇さん、比嘉俊雄さん=19日、中城村伊舎堂
そろいのユニホームには歌碑の詞が刻まれている

 伊舎堂村は1600年代、中城間切と同じ名称を持つ「中城村」だった。だが、中城間切が王子の直轄領になり、王子が「中城王子」と称され、68年には「中城」という文字の使用が禁止となった。そのため、総地頭の伊舎堂親方にちなみ、伊舎堂村へと改名されたという。そのことから、伊舎堂花の会の安里清一さん(83)は「1600~700年ごろにつくられた歌ではないか」と推察する。

 前述の歌詞は「私を思ってくださるなら、私のムラを訪ねて来てください。私のムラは世間で評判の花の伊舎堂です」との歌意になる。伊舎堂は明治中期ごろまで綿花栽培が盛んで、美しい女性が多い村としても有名だった。琉歌は、集落外の青年が、伊舎堂の女性に一目ぼれし、詠んだ歌の返し歌と口伝される。歌詞の花の伊舎堂には「綿花」と「美しい女性」の両方の意味が掛けられているという。

 安里さんは「小さいころは、あちこちに綿の木があったよ」と懐かしそうに話す。比嘉勇さん(78)は、村は男女が歌や三線、踊りを楽しむ村遊びも盛んだったといい「『伊舎堂の村しばいんじぃが行かな(見にいこう)』と他の集落からも見物客が来たと聞く。どこでも『花の伊舎堂』は良く知られている」と自慢げに語った。

 伊舎堂老人クラブだった老人会の名称も「若い人が入りやすいように」と、約4年前に歌碑にあやかり「伊舎堂花の会」に変更した。すると、狙い通りに会が活性化。60代の加入者が増え、昨年の正会員数は名称変更前の20人増となる63人に。おそろいのユニホームの背中には、歌碑の詞が刻まれている。ボウリングやグラウンドゴルフなどスポーツが盛んで、数々の賞を受賞した。

 活動が評価され昨年は、県が主催する住民が一体となり元気な高齢者を増やす活動をする地域を表彰する「ちゃーがんじゅう地域大賞」の大賞や、全国老人クラブ連合会の活動賞に輝いた。比嘉利夫会長(68)は「年々、会が活発になっている。歌碑が心の支えになっているね」とエネルギーの根源である歌碑に感謝した。