◆モノ語り 私と「5・15」(2)琉球切手 細工忠郎さん

細工忠郎さん宛てに届いた、1972年5月15日の消印が押された封筒。切手は沖縄返還協定批准記念した琉球切手

沖縄返還協定批准記念切手(左)と最後の琉球切手「ユシビン」について語り、本土復帰への思いを語る細工忠郎さん=石垣市真栄里

細工忠郎さん宛てに届いた、1972年5月15日の消印が押された封筒。切手は沖縄返還協定批准記念した琉球切手 沖縄返還協定批准記念切手(左)と最後の琉球切手「ユシビン」について語り、本土復帰への思いを語る細工忠郎さん=石垣市真栄里

 沖縄の海と空を想起させる青い切手。描かれた日米の両国旗に寄り添う白いハトの姿を初めて目にした時、当時32歳だった石垣市の細工忠郎さんは思わず感涙した。1972年4月17日発行の沖縄返還協定批准記念の琉球切手。78歳になった今、「間違いなく復帰できるって感激した。ハトは平和のシンボル。感無量だった」と振り返る。

 琉球切手は本土復帰前の米軍統治下の48年7月から72年5月までに257種が発行された。細工さんは沖縄特有の図柄に魅了され、20歳から収集を続ける。復帰後も趣味で集めた切手は2500シート以上。数え切れないコレクションの中でも、この切手への思いは特別だ。

 石垣市真栄里で生まれ育ち、八重山高校を卒業後、長崎県の日本無線電信専門学校に進学した。石垣島を出てあらためて感じたのは、米軍統治下を生きることの「違和感」だった。

 「同じ日本なのにパスポートが必要だし、荷物もほかの日本人より細かく厳しく検査されて、不思議でしょうがなかった。なぜ沖縄だけ特別なのかってね」

 高校でも「息苦しさ」を感じていた。高校2年、1956年には検閲で生徒の文芸誌「学途13号」が発行不許可となった。「米軍への不満を描写したのが気に入らなかったのか、高校生が作るものにも圧力。言論の自由もない時代さ」

 仲間と募らせた復帰への思いは県外の専門学校時代にますます強まる。59年6月に起きた宮森小学校への米軍機墜落事故など米軍絡みの事件事故をラジオで聞いた。「沖縄は虐げられている」。そう痛感した。

 58年8月、甲子園に県勢初出場した首里高校を球場で応援し、敗れた球児たちがグラウンドの土を袋に詰める姿も見た。その土は沖縄に持ち帰る前に植物防疫法で「外国の土」と見なされ海に捨てられたと知った。怒りとともに「日本」との距離を感じた。

 戦争マラリアで弟と祖母を亡くした沖縄戦、戦後も米軍統治下で続く沖縄の苦しみ。「復帰すれば、本土で生活する人とすべて一緒になる」と期待し、沖縄返還協定批准記念切手を手にした。ハトの図柄に「沖縄も本当の意味で平和になるんだな」と思った。

 だが、あれから46年たつ沖縄の現状に疑問は尽きない。「基地問題も残り、政府は米国の顔色をうかがい、県民の声を聞かない。今も虐げられているとは言わないが悔しい。あれは望んだ復帰じゃなかった」

 最後の琉球切手「ユシビン」を手にした時は一抹の寂しさも覚えながら感慨に浸ったが、今は複雑な思いもよぎる。「切手は時代を映す。この一枚一枚が自分の思いや考えの原点。本当に平和を感じられる時代になってくれたら」と願う。(八重山支局・新垣玲央)