ハワイの民間大使グラント・サダミ・ムラタ氏、愛称「サンダー」先生のグループのCD「ハワイ沖縄盆おどり100周年記念」を本人から頂き、毎日聴いている。那覇出身の智香子夫人と4世のサンダー夫妻がヘーシ(掛け合い)をしながら歌っている。意気投合した“チムグクル・ソウル”が頼もしいハーモニーとして深く伝わってくる。

ウチナーンチュがよく集まるウチナーンチュ経営のレストランで、三線を弾くサンダー先生、右端のサンバは智香子さん

 繰り返し聴いていると、サンダーの愛称の由来と、彼の身の上話を読者に伝えたくて、本人の許可を得て書くことにした。

 サンダー先生の名字のムラタ(村田)はウチナー名前ではない。ウチナーグチがペラペラなので、ウチナーンチュ大会会議での初対面から母親がウチナーンチュだろうと勝手に思っていた。母親の出身地を尋ねると愛嬌(あいきょう)たっぷりのサンダー先生は人ごとのようにこう語った。

 生後、日系3世の村田家の養子となった。事情を両親から打ち明けられたのは5歳の時。愛情豊かな家庭で身の上を気にせず育ったという。

 7歳で日舞を始め、琉球舞踊、柔道、沖縄空手などもやってみた。毎年行われる日本盆踊りフェスティバルで、特にウチナーのエイサー、歌三線にインパクトを受け、三線を習い始めた。当時12歳だった。

 琉球の歌三線を始めると、師匠やチョーデー(兄弟)弟子たちの会話や民謡の歌詞が、自分の知っている日本語ではないことに気付いた。

 稽古には紙と鉛筆を持参し、分からない言葉は全部書き留め、稽古終了後に師匠に聞いて勉強した。

 家ではレンタルショップで借りた沖縄芝居のビデオを何度も見てウチナーグチを勉強した。

 約1年足らずで上達しているのが分かると、仲間のある先輩が「えー くぬわらばーヤマトゥンチュやしが ウチナー歌三線上手やっさー。くりんかい ウチナー名ちきら うりサンダー 名やさ」(この子どもは日本人だが、沖縄の歌三線が上手だ。沖縄の名を付けよう。サンダーだ)。サンダーの愛称はこうして三線教室で生まれた。44年前の話である。

 沖縄民謡を続けて20歳になった頃、周りの師匠たちから「琉球古典音楽もやってみたら」と勧められた。当時、沖縄から安冨祖流の照喜名朝一先生がハワイを訪れており、知人に紹介されたことがサンダー先生の人生を大きく変えるきっかけとなった。

 25歳の時、照喜名先生にこう言われた。「サンダー、歌とうてぃ どぅんかい ちちゃぬくとぅ ねーらんな? どぅーや ウチナーンチュ あらんがやーんでぃ」(歌いながら、自問自答したことはないのか。自分はウチナーンチュかもと)。サンダー先生本人から目の前で聞かされた時、私はドキッとした。

 彼の歌声、独特の節回しやウチナーグチからしても、もしかしたら産みの母親はウチナーンチュかも、と私は初対面のころから意識していた。

 師匠に言われて母親捜しを始めたら、やはりウチナーンチュだったという。根本的に陽性なDNA気質、寛容で忍耐強い村田家の養育法に恵まれた結果が、サンダー先生の人格形成につながったのだと思わざるを得ない。(てい子与那覇トゥーシー)

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