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  • 宮森小米軍機墜落事故で負傷者への聞き取り調査が行われていた
  • 米陸軍病院に通っていた2~31歳の32人の医療報告書や賠償資料
  • いじめや悪夢など負傷者の精神的な苦しみが記録されている

 米軍施政下の1959年6月30日に沖縄県うるま市石川の宮森小学校や周辺住宅地に米軍戦闘機が墜落した事故で、けがを負った人とその家族が、事故後の精神的な苦しみを琉球政府と琉球列島米国民政府(USCAR)の聞き取り調査に訴えていたことが分かった。全身やけどを負った女子児童=事故当時(9)=の父親は事故1年後に「娘は、両手がばらばらになってちぎれる悪夢を見て夜中に時々叫び声を上げている」と証言している。(中部報道部・大城志織)

米軍戦闘機墜落後、教室内に急きょ設けられた救急治療室で、児童を手当てする米軍関係の医師(右)と不安げに見守る母親=1959年6月30日

公文書資料の一部。事故当時9歳の女子児童の父親は1960年7月の聞き取りで「娘は、両手がばらばらになってちぎれる悪夢を見て夜中に時々叫び声を上げている」と証言した(赤い部分)

入手した米国立公文書館などの資料の翻訳作業に着手し、実態解明を進めるNPO法人石川・宮森630会の久高政治会長=16日、うるま市石川

米軍戦闘機墜落後、教室内に急きょ設けられた救急治療室で、児童を手当てする米軍関係の医師(右)と不安げに見守る母親=1959年6月30日 公文書資料の一部。事故当時9歳の女子児童の父親は1960年7月の聞き取りで「娘は、両手がばらばらになってちぎれる悪夢を見て夜中に時々叫び声を上げている」と証言した(赤い部分)
入手した米国立公文書館などの資料の翻訳作業に着手し、実態解明を進めるNPO法人石川・宮森630会の久高政治会長=16日、うるま市石川

米公文書で明らかに

 NPO法人石川・宮森630会が入手した米国立公文書館などの資料で初めて明らかになった。資料は事故直後の59年7月1日から61年10月13日までに米国側が作成。大部分は米陸軍病院に通っていた事故当時2~31歳の負傷者32人の治療経過を記録した医療報告書や賠償に関する内容だ。

 630会によると、事故直後に負傷者の話は新聞などで報道されたが、その後はほとんど表に出ていない。久高政治会長は「声をしっかりと受け止めて拾い上げ、こうした状況にあったのだと明らかにしていきたい」と強調する。

 公文書は2016年12月にNPO法人沖縄東アジア研究センターの戸部和夫理事長から630会が提供を受けたUSCAR関係文書約2千枚と、県公文書館所蔵の約150枚。報告書では、両手足や顔などに大やけどを負った男子児童=同(8)=の家族が「他の子から笑われ学校から帰ると泣いている」と吐露している。

 事故から今年で59年になるが、賠償金の交渉過程などいまだに明かされていない事実も多い。630会は解明に向けて17年6月に翻訳の編集委員会を立ち上げ、今年5月に会議を開き、翻訳作業に本格的に着手。来春の出版を目指して実態解明を進める。

 翻訳監修者で沖縄戦研究者の保坂廣志氏は「事故の負傷者の声は当時のメディアを含めてこれまでほとんど触れられていない。記録は少ないが、家族や子どもたちの悲痛な痛みを可視化し、伝えることが重要だ」と意義を語った。

わが子の将来 嘆く親

 「娘は生涯、苦しまなくてはならないだろう」「退院したが一向に良くならない」-。NPO法人石川・宮森630会が集めた米国立公文書館の資料では、1959年の戦闘機墜落事故で米陸軍病院に通った負傷児童の親がわが子の行く末を悲観し、苦しむ声が記録されている。

 630会が入手した資料によると、琉球政府や米国民政府(USCAR)の聞き取りは少なくとも、59年11月から60年8月まで計4回あった。

 全身にやけどを負った女子児童=事故当時(8)=の母親は59年11月の聞き取りで「娘はひどく傷つき、傷口がじとじとして、恥ずかしがって苦しんでいる」と吐露。賠償金にも言及し「米国政府は娘のような精神的苦痛も(金額に)考慮すべきだ」とした。半年後の聞き取りでは「娘は顔がひどく崩れてしまい、羞恥心のため生涯苦しまなくてはならないだろう」と精神的な苦しみを訴えた。

 60年7月7日には琉球政府法務部とUSCARの職員2人が、陸軍病院で治療を受けた負傷者宅の訪問を記録。全身やけどを負った女子児童=同(9)=の父親は聞き取りの際に押し黙り、母親は泣き叫んでいたという記述もあった。

 「傷のため他の子どもからいじめに遭っている。陸軍病院を退院したが一向に良くならず、子どもは食欲がない」。後頭部や両手足にやけどを負った男子児童=同(9)=の母親は子どもの体調不良を訴えた。

 また、9歳の息子と6歳の娘が負傷した母親は「子どもの将来に不安を抱いている」と語った。

 両手足と顔から首・肩までやけどした男子児童=同(8)=が自宅で泣いていることを嘆く家族は「(息子は)めまいがすると言い、59年に2回ほど金武の精神科病院に連れて行った」と明かした。子どもが事故後に見た目をからかわれ、心が傷ついた様子が分かる記述もあった。

児童ら18人死亡

 【石川・宮森戦闘機墜落事故とは】 1959年6月30日午前10時40分ごろ、米軍嘉手納基地所属のF-100D戦闘機が訓練飛行中、旧石川市6区5班・8班(現うるま市松島区)の住宅地に墜落し、宮森小学校に激突して炎上。児童11人、住民6人(後に後遺症で1人)の18人の命が奪われ、200人以上の重軽傷者を出した。米軍が戦後、沖縄で起こした最大の墜落事故となった。

補償過程 解明を

 NPO法人石川・宮森630会の久高政治会長の話 これまでけがを負った人の話や記録などはほとんど表面化されておらず、当時の新聞などの資料でもわずかしかない。負傷者の苦しみをしっかりと拾い上げ、こうした状況にあったのだと明らかにしていきたい。

 資料には米陸軍病院で治療した患者の治療経過や補償問題などが記録されている。特に補償問題などは要求から決着までの全容が明らかになっていない。翻訳作業の中で少しでも明らかになることを期待する。

 現在も米軍機は当時と変わらず沖縄の上空を飛んでおり、墜落や故障も相次ぐ。悲惨な事故を決して忘れず、一度起こると大惨事につながりかねないと警鐘を鳴らし続けていきたい。

5月20日に講演会

 石川・宮森630会は墜落事故から60年となる2019年に向けた事業の一環で、事故当時、USCARの職員として負傷者らに聞き取り調査した旧具志川村出身の東恩納良吉氏(82)=ハワイ在=の講演会を20日午後3~5時、石川保健相談センターで開く。6月3日は午前10時~正午、同センターで遺族や体験者を招いた講演会を開く。いずれも入場無料。問い合わせは同会、電話098(964)2547。