戦時下、日本政府は金属製硬貨をアルミ製や紙幣などに交換するよう促し、軍需資材の不足を補おうとした。その命令に従わずに硬貨を埋めて隠し、戦後の苦しい生活を生き延びる足しにした故伊波孫栄さんの長男・惟眞さん(82)=沖縄県嘉手納町=は今も、父の残した硬貨の一部を大切に保管する。

戦中、地中に埋めていた硬貨の一部。貯金通帳や「大東亜戦争特別貯金証書」などの書類も=19日、嘉手納町嘉手納の自宅

「物々交換でだいぶ減ったが、戦後すぐはこの何倍もの硬貨があったよ」と振り返る伊波惟眞さん=19日、嘉手納町嘉手納の自宅

戦中、地中に埋めていた硬貨の一部。貯金通帳や「大東亜戦争特別貯金証書」などの書類も=19日、嘉手納町嘉手納の自宅 「物々交換でだいぶ減ったが、戦後すぐはこの何倍もの硬貨があったよ」と振り返る伊波惟眞さん=19日、嘉手納町嘉手納の自宅

 「制服の真ちゅうボタンに、屋良国民学校の二宮金次郎像…。金属という金属がみんな没収された」。小学校低学年の惟眞さんの記憶にも、強制的に金属が回収された当時の光景は色濃く残る。政府は1941年に国家総動員法に基づく金属類回収令を発令、その4年前には砲弾などに使うため銀や銅の硬貨は製造が中止に。アルミ製や紙幣、錫亜鉛合金製が出回るようになった。

 当時、郵便局員だった孫栄さん。現在はロータリー広場になっている敷地内に穴を掘り、布袋に金属製硬貨を詰め、雨水用の水タンクを逆さまにしてかぶせ、さらに土をかけて隠し続けたという。惟眞さんは「誰かに見つかったら大変なことになっただろう」と振り返る。

 米軍は45年4月、沖縄本島に上陸。一家は羽地に避難し、石川(現うるま市)の捕虜収容所で終戦を迎えた。やっとの思いで自宅周辺に帰ると一面が焼け野原。コンクリート跡でやっと屋敷跡を突き止め、焼け跡から水タンクを掘り出した。だが、お金があっても価値をなさない戦後の混乱期。硬貨を珍しがり、お金としてではなく「沖縄土産」にと欲しがる米兵相手に、孫栄さんは「物々交換」で生活物資を手に入れるようになった。

 「どんな物資も手に入れてきたよ」と惟眞さん。せっけんに歯磨き粉、たばこ、砂糖―と指を折る。一方、戦前に現在はサンエーハンビータウンが建つ周辺に住んでいたという妻好子さん(81)の家屋は焼き払われ、土地を接収され、東風平(現八重瀬町)に用意されたトタンぶきの家屋に立ち退きを強いられた。「着の身着のまま逃げ、戦前のものは何も残せなかった」と話す。

 戦後73年。戦火の記憶を刻んだ硬貨の土の香りはまだ消えない。惟眞さん夫妻は「家宝として代々の子孫に引き継いでいきたい」と語った。