昨年12月、広島県府中町で、中学3年生の生徒が自殺した。誤った万引の記録に基づく、不適切な進路指導が原因とみられている。今年2月29日、中学校が事故に関する調査報告をまとめ、自殺について「学校として責任があった」と認めた。

 一般に、児童・生徒の自殺について遺族がいじめや指導死を指摘しても、学校側は責任を回避しようとすることが多い。トラブルはあったがいじめではない、いじめはあったが自殺との因果関係はない、あるいは、家庭内の事情や本人の性格が主な原因だなどと結論付けられ、遺族は更に苦しめられる。

 今回の報告書が、不適切な指導が原因だったと率直に認めたことには、かすかな希望を感じる。しかし、報告書には、違和感を覚える部分も少なくない。例えば、報告書には、「1年は自分発見、2年は自己選択、3年は自己実現」といった生徒指導の計画が記されるなど、一般的な生徒の生活指導・進路指導の書き写しのような内容がかなりの部分を占めている。

 こうした記述が、今回の事件の分析に何の関係があるのかは不明で、事件の固有性・重さに向き合わず、一般論に終始している印象を受ける。

 私が根本的な問題だと考えるのは、この報告書が、学校が指導のための完全なマニュアルを作り、生徒指導をその通りに行えば、事件が防げたというストーリーで書かれている点だ。ここには、学校が生徒の評価権限を独占している限り、教師がどれだけ頑張っても、子どもにとって安全な学校にはならないという視点が欠けている。

 生徒との関係で、教師は圧倒的な権力者だ。教師が生徒と信頼関係を築いたつもりでも、生徒から見れば、「内申書のために良い子にしているだけ」のことも多々ある。生徒の保護者だって、教師のご機嫌を損ねるのは嫌なので、なかなか本音は言えない。

 評価権限を握る者との間では、対等な関係を形成できない。大学や企業では既にこの認識が進み、教員や管理職に対して、アカデミック・ハラスメントやパワー・ハラスメントへの注意喚起がなされている。中学校教師も、教育・指導の名のもとに善意でしていることがハラスメントになりうるという緊張感を持つ必要がある。

 小学校や高校と比較した際、中学校の教師には、進路指導の上で絶対的な権力が集中するという特徴がある。高校受験では内申書・内申点の内容がかなりの比重を占める場合も多いからだ。

 憲法学は権力の適切なコントロールを徹底的に考えてきた学問だが、この問題への憲法学からの答えは、「学校にも権力分立を取り入れよ」ということになろう。

 例えば、不適切な内申書の記述について、気軽に学校から独立した機関に相談できる制度を整える。あるいは、内申点の評価を、外部の認定試験で代替できるようにする。そうすれば、生徒や保護者も教師の権力を過度におびえずに済むだろう。

 権力のかさの下では、真の人間的な信頼関係など成立するはずがない。本当の信頼関係がほしければ、教師は評価権限を手放し、一人の人間として、対等に子どもと接するしかない。 (首都大学東京准教授、憲法学者)