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  • ウルトラマンを支えた、もう一人の沖縄出身脚本家・上原正三さん
  • 少数者への差別など、時に怪獣よりも恐ろしい人間の闇を描いた
  • 盟友・金城哲夫さんの思いを継ぎ、沖縄発のヒーローを企画中
「自立する人間になってほしいと願い、子ども番組を作っている」と語る上原正三さん=2月22日、神奈川県内

 沖縄出身の脚本家、故金城哲夫さんが「ウルトラマン」を誕生させてからちょうど50年。特撮の円谷プロで1歳下の金城さんと苦楽を共にした後フリーになり、ウルトラヒーローシリーズ3作目「帰ってきたウルトラマン」を手掛けたのが、同郷の上原正三さん(79)だ。

 2人のウルトラマンは対照的。金城さんが近未来のファンタジーとして描いたのに対し、「帰ってきたウルトラマン」は放送時の、1971年の東京が舞台。スモッグの空や工場地帯、ヘドロの海が戦いの場になり、時に怪獣よりも恐ろしい人間の心の闇もテーマになった。

 特撮界に多大な足跡を残した上原さん。ウルトラマンと並ぶ特撮ヒーロー、仮面ライダーの誕生にも関わったというから驚きだ。米軍占領下の沖縄から上京し脚本家になるまでのいきさつや、ウルトラシリーズ屈指の異色作「怪獣使いと少年」に込めた願い、故郷・沖縄への思いまで、語ってもらった。(聞き手・磯野直)

■疎開船とケチャップの味

―那覇市久米で生まれ育った。

 「父敬和は警察官で、僕は5人きょうだいの3番目。久茂地川が今よりも広くてきれいで、よくガザミを捕って遊んだ」

 ―戦争体験は。

 「1944年7月にサイパンが陥落すると、住民は戦闘の足手まといになるという理由で、日本軍が疎開を奨励した。でも、ウチナーンチュ(沖縄の人)は先祖の土地からなかなか動かない。それで『官公庁の家族から行け』となり44年9月ごろ、父を残して母文子ら家族6人で台湾に向かった」

 「1カ月後、一度沖縄に戻ろうと、10月10日に那覇へ着く予定の船に乗った。途中、急に台風が来て西表に避難している間、那覇が大空襲で壊滅した。僕らの船は行き場を失い、約2週間、海を漂流した」

 ―死を覚悟したか。

 「寝る時は家族6人、手首をひもで縛った。母は『離れ離れにならないように』としか言わないけど、7歳の僕でも死を覚悟した。回りは希望のない顔をした大人ばかりだからね、見れば分かるよ。米軍に制空権を奪われ、潜水艦もうようよいただろう。でも奇跡的に鹿児島に着き、熊本の円萬寺という寺で終戦まで疎開した」

 「2週間の漂流中、食べ物がないからケチャップだけをなめていた。だから、79歳の今もケチャップが食べられない」

 ―お父さんは沖縄で、地上戦を体験した。

 「糸満署長として住民を引き連れ、南部を逃げ回っていたらしい。住民と一緒に亀甲墓に隠れていて、日本軍に追い出されたこともあったという。どこをどう逃げたか全く分からず、摩文仁(まぶに)で死にかけているところ、捕虜になった。戦後、体験を一切語らなかったよ。左耳は全く聞こえなくなっていた。でも、僕ら家族は熊本で『勝った』としか言わない大本営発表をうのみにしているから、父たちが悲惨な戦場を逃げ回っているなんて、思いもしなかった」

 ―46年、米軍占領下の沖縄に帰郷する。

 「戦後、父は石川署長になっていて、石川市(現うるま市)で数カ月を過ごした後、百名小(現南城市)の3年生になった。警官の子なのに、学校が終わると米軍基地に潜り込み、戦果アギヤーを繰り返す悪ガキだった」

 ―映画との出合いは。

 「那覇高時代、朝から晩まで映画を見ていた。ヌギバイ(ただ見)でね。『シェーン』に感動し、高校生なのに早撃ちごっこするディキランヌー(劣等生)が観客では飽き足らなくなり、自分で作りたくなった。同級生に『ヤマトゥグチ(標準語)も分からんのに、シナリオ書けるのか』とからかわれたけど卒業後、意気揚々と東京に向かった」

■上京、これが「琉球人お断り」か

 ―55年当時、本土での沖縄差別は露骨だった。

 「高1の時、東京で暮らす親戚が『九州出身』にしていると知った。しかも本籍まで東京に移してさ。これは突き詰める必要があると。『俺は琉球人だ』との気概で東京に乗り込むと、親戚は歓迎してくれない。キャンディーやチョコ、リプトンの紅茶など、基地でしか手に入らない土産を嫌がったな。その後、僕も部屋を貸してもらえなかった。これが『琉球人お断り』かと知った」

 ―それでも、ひるまなかった。

 「『ウチナーンチュを標榜(ひょうぼう)して、ヤマトゥ(本土)で生きる』が僕のテーマ。沖縄を差別するヤマトゥンチュとはどんな人種なのか、俺の目で見てやる。そんな青臭い正義感を抱いて、60年がたつ」

 ―東京で浪人後、中央大学に入った。

 「でも授業には出ず、映研か映画館通いの毎日。アマチュア時代、沖縄戦や基地以外のテーマで脚本を書いたことはない。俺が伝えなきゃ誰がやるってね」

 ―1歳下の故金城哲夫さんとの出会いは。

 「卒業後、東京で同人誌用の脚本を書いていたが肺結核になり、25歳で帰沖した。那覇で療養しながら、テーマを探してコザの基地の街や嘉手納基地周辺をウロウロしていたよ。ある日、母の友だちに『あなたみたいな映画好きがいる』と教えられ、会いに行ったらそれが金城。ちょうど映画『吉屋チルー物語』を編集していた」

 ―どんな印象だったか。

 「俺が沖縄の現実を映画で告発しようと考えている時、金城が作っていたのは遊女の悲恋物語。俺が琉球人として生きる決意した時、あいつは玉川学園で『金星人と握手する会』を作って活動していた。発想のスケールが大きすぎるんだよ」

 ―その後、金城さんは特撮の円谷プロに入る。

 「63年、金城の誘いで東京に行き、特撮の神様・円谷英二さんや長男の一さんに会わせてくれた。一さんは『プロの脚本家になりたいなら、まずは賞を取れ』とアドバイスをくれた」

 「それで沖縄に戻り、沖縄戦をテーマに『収骨』を書いた。国の64年度芸術祭のテレビ脚本部門で佳作入選したんだ。65年1月、鼻高々で円谷プロを訪ねたよ。ちょうど円谷プロ初の特撮テレビドラマ『ウルトラQ』の制作中で、金城は僕のためだけに上映会をしてくれた。見たのは放送前の宇宙怪獣ナメゴン(第3話『宇宙からの贈りもの』)と、巨大サルのゴロー(第2話『五郎とゴロー』)で、僕はただただあんぐり…。『吉屋チルー物語』にも驚いたが、特撮怪獣物には本当に驚いたよ」

上原正三さんのテレビ脚本「収骨」が文部省芸術祭で佳作入選したことを伝える紙面(1964年10月9日付沖縄タイムス朝刊)

■「沖縄はタブーだ。テレビではできない」

 ―当時、TBSのエース監督だった円谷一氏は「収骨」をどう評価したのか。

 「円谷プロで再会した一さんは、受賞は喜んでくれたけど『沖縄はタブーだ。政治なんだよ。テレビでは絶対にできないぞ』って…。TBSのドラマは他局より秀でていたが、反戦の名作『私は貝になりたい』などは右翼に攻撃されてね。テレビ局は、政治的なテーマにピリピリしていた。代わりに、一さんは僕に『ウルトラQ』を書けと勧めてくれた」

 「で、書いたのが『オイルSOS』。ヘドロから生まれた怪獣が、石油タンクに吸い付いて巨大化するという話。沖縄戦がだめなら、水俣病をテーマにやってみようとした。一さんのゴーサインが出てね。石油会社を訪ねたら『どうぞロケでお使いください』と言う。あの高い石油タンクの上から景色を眺めると、天下を取った気分になったよ。沖縄は無理でも、公害問題を告発できると喜んだ」

 「でも結局、石油会社がロケを断ってね。発注した怪獣ボスタングの着ぐるみが出来ちゃっていたから、急きょ『宇宙指令M774』という話を書き、それが『ウルトラQ』の第21話になった。試写室のスクリーンいっぱいに映像が映し出されたら、感激したよ。これがプロデビュー作」

 ―金城さんの誘いで円谷プロの社員になる。

 「金城が企画文芸室長で僕が副室長。66年1月から始まった『ウルトラQ』がヒットし、さらに66年7月に始まった『ウルトラマン』で、円谷プロは隆盛期を迎えた。金城は常にその中心にいてね。67年10月から始まった『ウルトラセブン』も、『ウルトラマン』ほどではないが視聴率は取れていた。金城の書く作品は本当に素晴らしかったよ。特に、メーンライターを務めた『ウルトラQ』『ウルトラマン』、そして『ウルトラセブン』の最終回は彼の真骨頂だ」

円谷プロ時代の上原正三さん=1967年ごろ(上原さん提供)

 ―しかし、怪獣ブームは去ってしまう。

 「円谷プロ初の1時間番組『マイティジャック』が68年4月から始まったが視聴率が悪く、赤字を累積させた。それで円谷プロは金城を降格させ、切った。あれだけの功労者を会社は切ったんだ。金城は見るからに意欲を失ってしまった」

 「そんな中、『怪奇大作戦』(68年9月~69年3月)で、金城がTBSの橋本洋二プロデューサーに『対馬丸事件を題材に、シナリオを一本書く』と宣言したことがある。でも、結局書けなかったよね。金城は沖縄戦の時、家族で南部戦線を逃げ回った。おふくろさんが艦砲射撃で片足を失ってね。あまりにも過酷で、生々しくて…。結局、沖縄戦については何も書かないまま死んでしまったけど、見たかったよな」

 「金城はその後、数本書いたけど、魂のない作品だった。69年2月、失意のまま妻と3人の子を連れて沖縄に帰ってしまった。会社は僕に残れと言ったが『金城のいない円谷に魅力はない』と言って辞め、フリーになった。結婚直前だったけど、もし思いとどまっていたら今の僕はない。退社は69年2月。なのに、妻の光代と5月に結婚し、失業保険で6カ月間暮らした。映画『グレン・ミラー物語』をなぞらえ、お金がなくても幸せになれるんだと妻に言い続けて47年が過ぎたよ」

■仮面ライダー誕生、そしてウルトラ復帰

 ―フリーになり、「仮面ライダー」の誕生にも関わったと聞く。

 「企画の段階で原作者の石ノ森章太郎が、テレビ局ともめていた。テレビ局はウルトラマンのようなヒーローを期待しているのに、石ノ森が作って提案したのはバッタをモチーフにしたキャラクターだったから嫌がり、お互いの意見が平行線だった」

 「そのころ、『柔道一直線』(69年6月~71年4月)を手掛けていた僕に、『話し合いに入って、石ノ森の援護射撃をしてくれ。テレビ局を説き伏せてくれ』との依頼が来た。それで、同じ脚本家の故市川森一と一緒に、話し合いの場に乗り込んだ。控室で『仮面ライダー』の絵を見せられた時は、正直『えーっ、本当かよ…』と絶句したよ。それでも、会議では石ノ森のアイデアがいかに素晴らしいかを力説した」

 「僕が『ウルトラマンのコピーをやってもだめだ。このキャラクターには未来がある』などと演説すると、隣で市川が『そうだ』と合いの手を入れる。当時、僕と市川といえば子ども番組の脚本家として知られつつあったから、テレビ局側も『そんなに言うなら』と渋々認めてくれた。それで、そのまま『仮面ライダー』を立ち上げてくれと言われ、準備を進めた。主役の藤岡弘やヒロインの島田陽子があいさつに来たよ」

 ―しかし、再び円谷プロから誘いが来た。

 「TBSの橋本プロデューサーから『ウルトラマンをもう一度やるから戻ってこい』との連絡が来た。一度は下火になった怪獣物だったが、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』が再放送されると人気が再燃していた。それで新作を作ることになり、僕は『仮面ライダー』を離れた」

 ―企画のさなかの70年1月25日、円谷英二氏が亡くなる。

 「それで、長男の一さんがTBSを辞めて円谷プロの社長になり、『新しいウルトラマンで、おやじの弔いをやるんだ』と意気込んだ。『帰ってきたウルトラマン』(71年4月~72年3月)は、お鉢が回るような感じで僕がメーンライターになった。すると、円谷プロは第1、2話の監督に映画『ゴジラ』の本多猪四郎さんを連れてきた。巨匠だよ。まさに円谷プロの決意の表れ、おやじさんの弔いへの熱意の表れだね。でも、俺は何を書けばいいのかとびびってしまった」