真っ暗なガマで、断崖絶壁で、ハブが潜む山中で。沖縄戦の遺骨や遺留品をボランティアで掘り起こしてきた那覇市の国吉勇さん(77)が3月、約60年に及ぶ活動から引退した。「体力の限界」。3800柱以上の遺骨を収集し、自宅敷地の一角には10万点を超えるという遺留品がびっしり。激戦の記憶を刻む品々は今後、公的な資料館などへ寄贈したいという。(社会部・新垣綾子)

沖縄戦の遺留品が並ぶ国吉勇さんの資料館。「日本兵の水筒は茶色が陸軍、白っぽいのが海軍のもの」=那覇市楚辺

学生と収集した遺骨について話す国吉さん(中央)=2013年2月、糸満市大度(浜田哲二さん撮影)

沖縄戦の遺留品が並ぶ国吉勇さんの資料館。「日本兵の水筒は茶色が陸軍、白っぽいのが海軍のもの」=那覇市楚辺 学生と収集した遺骨について話す国吉さん(中央)=2013年2月、糸満市大度(浜田哲二さん撮影)

 鉄かぶとに引っ付いた頭蓋骨、火炎放射器で炭化した大腿(だいたい)骨やおにぎり、注射針と脱脂綿が入った小箱…。「戦争資料館」と名付けた自宅の一角には、長年の活動で収集した遺骨や遺留品が並ぶ。解説に熱が帯びる一方で、深い意義付けはしない。「戦争は悪いこと。当たり前の話」。何を学び取るかは、訪れたそれぞれに委ねられる。

 8男3女の六男として旧真和志村に生まれ、6歳で沖縄戦を体験した。母は山原避難中にマラリアで、1歳の弟とめいは栄養失調で死亡。足が悪かった祖母は親せきや当分の食糧と一緒に自宅近くのガマに残されたが「戦後戻ると、みんな死んでいた」。予科練に合格し本土に向かった3番目の兄は定期船「湖南丸」ともども米軍に沈められた。

 小学生時代は城岳のガマが遊び場。「石につまずいたと思ったらミイラ化した遺体。無数に転がっていたよ」。そんな原体験と身内5人の戦死が高校卒業後、収集活動を始めるきっかけになった。

 会社経営の傍ら収集現場へ向かい、日が暮れるのも気付かずのめり込んだ。軍民を隔てない姿勢が、日本兵の壕追い出しで家族5人を亡くした地域住民の怒りを買ったこともあった。「それでも、自分が明るい地上に出してあげないと土に返ってしまう。そこには戦没者の立場も、右も左もない」。「来る者拒まず」の性分や率直な物言いが時に誤解を招いたが、仲間は「熱意余っての言動」とも。

 昨年12月、妻よし子さんが76歳で急逝。その約1カ月半後には現場に戻ったが、山中で足元がふらつき満足に活動できなかった。

 「女房や家族にはずっと心配をかけてきた。そろそろ潮時だと」。今後の収集活動は県外から訪れるボランティアらに託し、自らは自宅資料館で訪問者を受け入れるという。「ジャングルは厳しいが、伝えることはやめない」と決意を込めた。