憲法学者で、沖縄タイムス紙に「憲法の新手」を連載中の木村草太氏(首都大学東京教授)の講演会「沖縄で憲法を考える」(主催・沖縄タイムス社、連合沖縄)が3月31日、那覇市久茂地のタイムスホールで開かれた。木村氏は、憲法は国家権力の暴走を止める役割を持った重要な法律だと存在意義を説明。名護市辺野古の新基地建設については「米軍基地の移設場所は一内閣だけで決めていい話ではない」と指摘した。以下は講演全文。

憲法と国家権力などについて講演する木村草太氏=3月31日午後、那覇市久茂地・タイムスホール

■憲法は何のために

 まず、憲法とは何かという所から話をしていく。

 さて、憲法とは何ですかというのは、私が良く聞かれる質問だ。

 憲法についてはいろんな説明の仕方ある。たとえば国家権力を縛るものだという説明だとか、フランス人権宣言がどうのこうのという説明だとか、いろいろ聞いたことあると思うが、私としてはポイントはここだと思う。憲法というのは国家権力の失敗を繰り返さない、そういう目的がある。国家権力の失敗を繰り返さないための仕組みが憲法なんだというのが一番分かりやすいと思っている。

 昔から国家権力の失敗は非常に致命的なものであり、緊張感もって受け止められてきたが、国家権力のコントロールという課題は近代社会に入ってから非常に大きな、重要な課題になっている。

 なぜそんな重大な問題になるのか。近代というのは、かいつまんで説明すると、その国の領域内で暴力・実力を独占する、そういう国家が成立した。

 では近代以前の国家秩序はどうだったか。中小規模の武将集団が併存している。日本の戦国時代では、天下統一するだけの武将は徳川家康まで出てこなかった。公家は公家で勢力を持っているし、僧侶たちも武装している。ですから武家集団や公家、僧侶がそれぞれ武装集団を抱えて併存していた状況であった。

 ヨーロッパに目を移してもそう言う状況であったわけで、領主などがそれぞれ武装集団もっていたり、傭兵を雇い入れて闘いを続けてきた。それが中小規模の武将集団が併存するという前近代的な国家秩序だった。

 前近代的国家秩序というのは暴力を独占している人がどこにもいない秩序なので、どういうことが起きるか。けんかが起きると殺し合いになる。そういう世界ということになる。

 実際、中世ヨーロッパでは、争いがあったら自力で相手を殺してしまおうというのはれっきとした法制度。今でも法制史の勉強なんかをすると、たとえば、今の時代、たとえば借金を返さなかったから殺しに行くことはあまりないと思うが、昔は借金返さないとか、自分のものを取ったとか、勝手に取られたとなると、誰もそれをコントロールする裁判所とかがないので、自分たちで傭兵を雇うなどして相手に襲いかかっていった。

 そういうような時代を経て、中小規模の武装集団が併存していると闘いはじまると歯止めがきかない、それを何とかしないといけないということを考えて、新しい近代国家秩序が生まれていく。

 特に近代国家秩序の思想が生まれてきたのは、最初はホッブズとかロックとか、イギリスの内戦時代の話だが、イギリスでは非常に長く宗教がらみの内戦が続く時代だった。そういう時代を見て、政治学者たちはいろいろ考え、内戦がずっと続く状況を何とかできないかと考えた。そこで、登場したのがトマス・ホッブズという哲学者だ。

 ホッブズは非常に有名な「万人の万人に対する闘争」という話をしている。放っておくと人間というのは万人の万人に対する闘争がずっと続く状況になってしまうので、殺し合い止めるためには誰かが暴力を独占し、暴力を集中管理しなければならないんだという構想を提示する。これが近代国家の秩序ということになる。

 分かりやすくいうと、学級崩壊しているクラスがあって、担任の先生が争いを止められない。担任を変えて竹刀を持ったこわもての先生を送ったら学級崩壊が収まったというのが近代国家の成立。

 今の例えでピンときたと思うが、竹刀を持った先生が、暴力をふるった生徒を片っ端からたたいていく。争いは収まると思うが、問題はそこから先で、その先生の体罰をどうやってコントロールするかが課題になる。近代国家でもまったく同じで、要するに領域内の暴力を独占するような主権国家が成立すると、今度は主権国家というのは権力の乱用を始めるという時代が到来する。

 その主権の乱用どう防止するかということで、今度は主権を確立しよう、暴力を独占して管理しようという構想に加えて、主権乱用をコントロールする。こういう議論が出てくる。

 今の話が基本的な憲法学、あるいは近代以降の憲法学とか政治学が前提としている権力とか国家。つまり国家秩序というのは階段があって、まず非常に内戦が続いていて、その地域で全然秩序が安定しない。そういう状況がある。

 1段階目を上ると内戦が収まった、内戦を収めるだけの実力集団をつくれるという状況になるが、ただ国家が作れただけでは、今度は主権国家が権力を乱用して人民を弾圧するということが起きてしまう。

 そこで、それをさらに権力の乱用を防ぐような階段をもう一つ上がってもらわないとまっとうな国家になりませんよという2段階の考えになる。

 世界を見渡してみると、たとえば現在、イラクやシリアででは絶え間ない内線が続いている。こういう状況は1段階目の階段が上れていない状況。近代国家論からすると、それはまさに、もっとも悲惨な状況であるということになる。

 次に1段階目の階段を上ったとしても今度は国家が主権乱用するという段階が待っている。たとえば北朝鮮だとか、軍政時代のミャンマーなんかは、内戦がない。北朝鮮もミャンマーも内戦がずっと続く状況ではないのでイラクやシリアとは違うが、あれが理想的な状況かというとそうではない。そこでもう1段上らないと行けない。そこが立憲主義という段階になります。

■立憲主義と国家

 立憲主義というのは、国家権力の失敗を繰り返さない。そういう憲法を確立しようという考え方だ。

 さて、国家権力の失敗とは何か。それは、立憲主義というか憲法学会では通常三つにまとめることができる。国家権力の三大失敗というのは無謀な戦争、人権侵害、独裁、いずれも三大失敗として記憶される。

 無謀な戦争で国力が衰退した国はたくさんある。古代ギリシャとか中国、ローマ帝国、いずれも無謀な戦争によって国力を疲弊し、場合によっては国家崩壊まで起きた。

 それから人権侵害は、国家権力がしでかしがちな失敗。人権侵害の例で言うと、大事な例としては拷問による人権侵害を忘れてはいけない。ヨーロッパでは昔、魔女裁判をやっていた。

 どういう裁判か。悪魔と契約して魔法を使って人にいたずらしたことに対して、それを罰する刑事裁判。魔女の疑いをかけられた人は、捕まり、裁判に掛けられ、有罪になれば火あぶりが相場。そういうことが繰り返されてきたのが魔女裁判。

 今の感覚からすると、おそらく魔女裁判の有罪とされた人の多くが無実の罪だったことは確実だが、欧州では大量の人間が有罪の判決を受けた。

 パニックになった国家権力はこういうことをしがちである。魔女裁判は一例に過ぎないが、人権侵害というのを国家権力は何度も繰り返してきた。たとえば拷問をされない権利の侵害を何度も繰り返してきた。これを二度と繰り返さないようにしなければならないというようなことが立憲主義の考え方に出てくる。

 最後に独裁。だいたい国家権力はほとんど独裁を始める。どこの国家権力も一緒だが、始まるとまず独立した裁判をやらせなくする。次に、権力者に従わない新聞社やテレビ局なんかがいじめを受けた時に裁判所が救えないようにする。そんなことから始まって、司法の独立を侵したり、国会で議論するのは面倒くさいので、国会の権限を全部政府に移してしまうというようなことをやったりする。

 こうした三大失敗を何とか繰り返さないようにしようと、まず憲法という法律を作り、憲法の中に軍事力のコントロール、基本的人権の保障として権力分立という、三大失敗を繰り返しませんというルールを書き込んでこれを守らせようとする。これが立憲主義という発想だ。したがって立憲主義の構想に基づいて作られた憲法は、国家権力が非常にやりがちな失敗なので、放置しておくと国家権力はこういう失敗をまた繰り返していく。

 なので、憲法に違反するような国家権力の動きがある場合は早めに止めておかないと、大変なことになる。以上が立憲主義の考え方であり、憲法の存在意義。

 憲法というのは、こういう役割持った法典であり、だからこそ国の最高法規なのだ。憲法の構造を見ると、98条では国の最高法規だと。この条文に違反するような法律や命令は全て無効だと宣言している。

 この条文は非常に重要で、これに基づいて違憲な法律や命令を無効にしていくが、ただこの条文だけだと、「自称最高法規」なだけ。何でこれが最高法規なのかということを説明したのが前の条文の97条。

 97条ではこの憲法が保障する基本的人権というのは、過去幾多の試練に耐え、現在及び将来の国民に対し侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 まさにこの憲法は、人権保障という極めて重要な役割を担った法典で、だからこそ最高法規でなくてはいけないんだということが構造として書かれている。

■差別されぬ権利

 不平等というのは、何に原因があるかはともかくとして、本当は同じであってほしいところで、何かが違っている。一方、差別されないというのはべっ視感情、あるいは嫌悪感といったものが背景にある。

 差別の定義といえば、人間の類型に向けられたべっ視感情、あるいは嫌悪感と定義される。もちろん皆さんも人間だから、個人的な好き嫌いはある。個人的に私があの人を好き、嫌いというのは差別でない。

 人間の類型、どのような個性をもっていようとこの人種だと嫌だとか、こういう性別は嫌だというような、人間を個人としてではなく、類型として評価し、そこにべっ視感情を向ける、人間の類型に向けられたべっ視、あるいは嫌悪感が差別ということになる。

 米国では、憲法に平等条項が盛り込まれたにもかかわらず、長らく人種分離の法律が続く。考えにくいことだが、特定の人種の人たちはこの学校に行け、電車の後ろに座れ、など人種の分離をしている法律があった。

 実際ある時期までの米国は、例えばビーチ、白人用と黒人用で分かれている。プールも、学校も。そういうわけで、人種分離は不平等じゃないかと訴訟で争うのだが、平等権で闘った時、20世紀半ばまでかんばしい成果をあげられなかった。

 人種分離する側の反論は、なぜこう分けるのかというと、有色人種と白人の間には対立があるので、同じ場所にいると争いが始まるかもしれない。だから治安維持と社会秩序のために分離が必要という。

 そこを平等権でやれば、裁判所はそこに区別をすることに合理的な理由があるかということしか考えないので、秩序を維持するという目的を達成するために人種分離は役に立ちそうなので合理的といえるでしょうと、合理性の判断だけになってしまい、こういう判決がずっと続いていく。

 人種分離は社会秩序のためという目的があったとしても、やっぱりこれは差別的じゃないですか、社会の差別を助長するんじゃないですかというのが問題になると思う。20世紀の半ばから、法律家たちは人種分離について合理的な分離で、役に立っていても、特定の人種に向けられたべっ視感情という差別に基づき、差別を助長するものなんだから、合理的なだけじゃなく、それとは別に差別されない権利の侵害があるという形で問題を形式化しないといけないということで展開をはじめた。

 20世紀半ばから法律家は差別されない権利、平等権とはまたちょっと違う、特定の人種を分離するような、迫害するような法律は差別されない権利の観点から、また別に検討されないといけないという観点から始まり、この観点から議論が始まった結果、人種差別、差別を背景にした社会制度がどんどん憲法違反にされてきた経緯がある。

 私は差別されない権利が重要であると考えた。差別されない権利が日本国憲法で保障されているので、平等権と、自由権と区別された重要な権利として確立する必要があるのではないかということを、最初の論文で書いた。そのタイトルは「平等なき平等条項論」。平等権とは違う、憲法14条の使い方が実はある、ということを書いている。

 外国の憲法ではディスクリミネーションという単語が必ずしも入っていない。日本国憲法は両方ちゃんと分けて書いてある。先進的な平等条項、差別されない条項の規定で、これを利用しない手はないと、そういう解釈を展開してみた。割と包容力があるものだと思っている。

 どういうところでこれまで使ってきたかということだが、憲法上訴訟の問題となってきたもので、自由や平等ではなく、差別されない権利という観点でアプローチするのが有効なのではないかと思っている。差別されない権利は大変重要なアプローチだ。

 9・11テロのあと、日本国内にいるムスリムの行動、テロリストで疑われる方だけでなく、ただ国内にいるイスラム教徒を全員捜査して、データベースつくるということをした。

 この捜査もテロリストに関係する人だけではなく、網羅的にムスリム全般を捜査の対象にする、このこと自体が違法なのではないか。差別されない権利、宗教に対する差別ということになるのではないか。

 あるいは同性婚。婚姻をする権利があるという闘い方ではなく、同性愛に対する差別という闘い、議論をするのが有意義ではないかという主張をしているわけだ。 

■集団的自衛権問題

 集団的自衛権の問題を扱ってみたい。おととい安保法が施行されて集団的自衛権の行使ができるようになった、とされているが、集団的自衛権の行使が憲法違反、おそらく違憲だろうという感覚自体はみなさんお持ちだと思う。

 実は集団的自衛権の問題は憲法9条論ではなく、それと別に権力分立の問題、統治機構の問題からのアプローチもできるという話をしたい。

 日本国憲法は権力の独裁を防ぐため、権力を分立するというのが基本的な考え方。権力分立とは、国会、内閣、裁判所、地方自治体それぞれが自分たちの与えられた権力以上のものを行使してはいけないという考え方になる。

 例えば、国会に立法権はあるが行政権を行使してはいけない。あるいは司法が立法権を行使してもいけない。権力は分立し、権力の独裁を防ぐのが統治機構の考え方だ。

 集団的自衛権行使は9条違反の問題があるが、政府が集団的自衛権を行使するのは、日本国憲法が与えた権限外の行為だということになるという説明ができ、この点が非常に重要な論点になる。

 日本国は国民主権の原理をとっている。国会や政府、裁判所の国家機関は国民から負託された権限だけを行使できる。これが基本になる。そうすると、政府が集団的自衛権を行使するといった時に、その行使は果たして政府に与えられた権限なのかというのが問題になるわけだ。政府に与えられた権限というのは、憲法第73条に書いてある。これを読むと、要は行政と外交が内閣の権限だと書いてある。

 内閣は、まず一般行政事務、行政の事務を行い、外交関係を処理する。外交関係で特別重要な法律を締結するときは国会の承認を受ける、というようなことが書いてある。ちょっと説明すると、行政というのは何かというと、国内を統治支配する宰務のうち、立法や司法を除いたものと定義するのが、これが行政という概念。個別的自衛権、日本の防衛のための実力行使はこの行政に含まれる。だから内閣の権限として、内閣が責任を持ち、また内閣がコントロールするものとして、内閣の権限になる。これが従来の政府の説明だった。

 実際、日本を防衛するのは防衛行政というが、自衛隊は行政機関だし、防衛大臣は防衛行政をつかさどる行政機関と位置づけられてきた。行政といってしまえば全部それにおさまるわけではなく、行政権は外交を含んでいるが、国内を支配するものなので、外との交わりのある作用については行政の概念に含まれないということに基本的にはなる。

 しかし、外交については、日本の主権は外国に及ばない。従って、外交というのは行政とはちょっと違う関係になる。普通に、法的な概念としても、一般的な概念としても、外交といえば相手の主権を尊重して対等な立場で行うもの。これが外交ということになる。

 これに対して外との関係性、相手国の主権を無視する関係というのがあり、それが軍事活動。空爆したり、地上軍を派遣したりするが、外交関係は相手も納得いかなければできない。例えば首脳会談はお互い合意の上でないとできない。 一方で軍隊派遣したりする、相手国の同意がないのが前提で行われる。外交とは別に相手国の主権を尊重し、対等の立場で行う外交とは別の、軍事という活動があるということになる。

 日本国憲法は、軍事活動を行うことを想定していない。防衛行政を超えた軍事活動、外交関係の処理を、外交関係の行使を超えた軍事活動というのを想定していないので、実は日本国憲法の中には内閣に軍事権を与えた規定は存在しない。 ただ日本国憲法73条だけみればよく分からない。ここにない、他の国にはあるんだけれどもない、というのは他の国の憲法や条文をみたことがないとなかなか分からないので気付かれにくいが、ここには軍事という権限が欠けているのが日本国憲法の大きな特徴といっていい内容だ。例えば米国憲法は、軍事活動の場合、議会の承認が必要。承認がとれないと一定以上の活動できない。ドイツもそう。どこの国をみても、軍隊を動かす、軍事活動には緊密な規定を置いて、軍事権の責任者は誰で、どういう手続きをとりなさいというのが書いてある。

 問題はどこか。集団的自衛権の行使は、日本防衛以外の目的で武力行使するという権限の行使、活動だが、果たして集団的自衛権の行使は内閣が持っている権限の中にあるか。この中に軍事というのがあれば、確かに軍事活動として入っていると言えるが、それが入っていないので、軍事ですと説明ができないわけだ。では、どうやって説明するのか。私はこういう質問をよくする。集団的自衛権の行使が合憲なのは分かった、では73条のどの権限なのか聞くわけです。

 集団自衛権の行使が合憲だという人たちも昨年、何人かいらっしゃった。発見された人たちはものすごく少ない。ちょっと解説しておきますと、マスメディアがいろいろな調査をし、だいたい憲法解釈の専門家の95%が違憲という。残り5%はどういう人なのか。彼らが言っているのは、結局、集団的自衛権を行使してはいけないと書いてある条文がないので、したがってやっていいですと。書いてないからやっていいと。これでいいわけがない。

 書いていないからやっていいという論理だと、何がおきるか。内閣が責任者とも書いていない。どういう手続きを踏んで集団的自衛権を行使するのか全く分からないということになる。責任者も書いていないし、議会の承認が必要という手続きも書いていないとなれば、現場が暴走して、自衛隊の判断で集団的自衛権を行使しても違憲ではないということになる。これが書いていないからやっていいという解釈のインパクトだ。

 統治機構論は集団的自衛権の良い例。内閣の権限はどこからどこまでで、そこからはみだすと権力の集中独裁になるからやめてという権力の線引きをしている。そこがまた憲法学、憲法解釈の重要な役割ということになる。

■普天間移設・辺野古基地建設問題

 問題なのは米軍基地の移設場所は、内閣だけで決めていいのかということだ。米軍基地の移設場所は一内閣の決定だけできめていい話ではないのではないか。国会は唯一の立法機関(41条)。立法は国会以外やってはいけない。立法というのは、国政の重要事項(立法)については国会が決定する。

 法律で決めなければいけない事項を「法律事項」と言うが、法律で決めなければいけないような重要な事項を決めることが立法であり、そのような重要なことは、内閣や裁判所だけではなく、国会が担う。米軍基地の設置場所は国政の重要事項であり、国会が決めなくてはいけないというのが私の意見。

 憲法92条を見ると米軍基地の設置が何をもたらすかというと、日米地位協定が適用されるので、基地の設置場所については自治権が制限される。沖国大にヘリが墜落したとき、地元の消防の権限が制限を受けた。相模原市の米軍基地での火災でも地元の消防権限が制限された。

 自治体の自治権の範囲は、どう考えても92条にあたる。これは、一内閣が決定していい話ではない、どの自治体の権限をどのように制限するかということは、法律で決めなくてはいけない。憲法95条には、特定の地方公共団体へ適用される法律は、住民投票が必要とある。この通りの手続きがとられれば、今わたしたちが見ているのとは違う風景になるのではないか。

 直後に国会で議論してくれた先生がいた。松田公太議員が昨年4月8日の参議院予算委員会で、全国民の代表である国会でこれについて審議して、例えば辺野古設置法のような法律を制定して、法律事項として進めるべきではないかと。安倍総理は今ある法律に上乗せしてつくっていく必要は無いのではないかと答えている。

 一方で安倍首相は、基地の設置場所は国の最重要事項と言っていて、総合するととても重要なことなので、国会に関与させないという議論にも聞こえる。

 代執行訴訟で沖縄県は、辺野古の新基地建設には具体的な根拠法が存在しないため、仮に埋め立てを行っても米軍基地として運用できないから、およそ合理性を欠くと主張している。

 国側は基地建設の理由を明示しないといけないが、国側は安全保障に関わる事務は地方公共団体の権限ではないと主張している。でもこれは反論になっていない。県の主張は、自治権が制限されるので、根拠法は何ですかと指摘している。

 辺野古の問題は、さまざまな問題を含んでおり、統治機構を考えるきっかけになる。沖縄だけに基地負担を押し付けることは、憲法的に差別されているという議論に行き着くのではないか。統治機構の問題は、沖縄から考えなければならない。日本全体の人権・統治機構の議論を深化させることにもなるだろう。(了)