【松田良孝通信員】台湾北部の桃園(タオユエン)市には、アジア太平洋戦争末期に沖縄からの疎開者が暮らした場所があり、その様子を記憶している人たちが健在だ。「米軍の攻撃で疎開者が亡くなった」「戦後は食べ物に困り、草を食べている人もいた」。その証言からは、戦況の悪化や終戦後も、沖縄の疎開者が苦境に立たされていた様子がうかがえる。

沖縄からの疎開者について話す邱江寶珠さん=桃園市八徳区長興路の自宅

桃園市八徳区の福祉施設。この裏手に沖縄からの疎開者がいたという

沖縄からの疎開者について話す邱江寶珠さん=桃園市八徳区長興路の自宅 桃園市八徳区の福祉施設。この裏手に沖縄からの疎開者がいたという

 台湾への疎開は、政府の閣議決定に基づいて1944(昭和19)年秋以降に行われ、先島などから女性や子ども、高齢者ら合わせて1万人以上が台湾に渡った。台湾にいた知人や親戚を頼り、自主的に疎開した人もいる。

 桃園では地域史などに関心を持つ人たちがフェイスブックで情報交換しているほか、大学生らが高齢者からの聞き取りをまとめた資料集が発刊されている。その中で沖縄からの疎開も話題となり、同市中部の八徳(バダ)地区と北東部の亀山(グイシャン)地区の状況が明らかになってきた。

 両地区は、疎開地だったことは分かっていたが、地元の人がどのように記憶しているかはこれまで知られていなかった。

 八徳地区は、特攻隊の出撃地としても使われた旧陸軍の八塊飛行場があったエリア。同地区の邱江寶珠(チウジアンバオチュ)さん(94)の実家が営んでいた精米所に、沖縄からやってきた20~30人の疎開者が身を寄せていた。同地区の大通りで釣具店を営む朱乃平(チュナイピン)さん(53)は20年生まれの祖母(故人)から「通りの向かいにある福祉施設の裏側に沖縄の疎開者がいた」と聞いたことがあるという。

 邱さん宅の疎開者は食事に困ることはなかったが、同地区の別の疎開者について「米軍の攻撃では、30人から50人の琉球人が亡くなったのではないか」と話す。

 亀山地区の疎開者がいたのは、地元で坪頂五差路と呼ばれる交差点の一角。王陳英(ワンチェンイン)さん(76)は「実家のそばに琉球人がいた。700~800人はいたのではないか」と話す。戦後は疎開者が食料を確保できなくなり、地元の人たちが簡単な料理を作って安価で提供したが、野草を摘んで食べる人もいた。王さんは「とてもかわいそうだった」と振り返った。

 両地区は、日本統治期には茶や米などを主産物とする農村地域だった。現在は台北近郊の地方中核都市で、2014年の合併によって桃園市の一部となっている。