2018年7月1日、沖縄タイムスでは27年ぶりに女性の編集局長が就任した。現在、日本新聞協会に加盟する全国紙、ブロック紙、地方紙で唯一の女性局長だ。週刊誌の記者を志した高校時代、1年余の就職浪人を経て記者として採用されたのは25歳の時だった。「女性」記者であることに悩んできた与那嶺一枝新局長に、今後目指す紙面作りなどについて聞いた。(デジタル部・與那覇里子)

与那嶺一枝編集局長

 

「公務員を目指す」と親にうそ

―記者を志したきっかけは

「高校生のころ、週刊誌の記者にあこがれた。興味があることを調べることもできるし、人にも会える。大学4年生の時、週刊誌に近い新聞記者もおもしろそうだと思い、沖縄タイムスの入社試験を受けた。でも、最終面接で落ちた。あこがれの仕事は無理かなと思いつつ、落ちたときは悔しかった。だから、もう一度受けようと決めた。母には公務員になりなさいと言われていたため、公務員試験の勉強をしているとうそをついて就職浪人を許してもらった。入社できたのは3回目の試験の時。25歳になっていた。バブルが崩壊する直前だった」

―東京で週刊誌の入社試験は受けなかったのか

「父は兼業農家、母はパート勤めの家庭で育った。最初から就職は沖縄でと考えていた。その父親の教えが『本土のものより沖縄のもの、大企業のものより小さな会社のものを応援しなさい』というものだった。いつしか沖縄で働きたいという気持ちに向かっていたのかも」

―あこがれの新聞記者のスタート。順調だったのか

「8月に入社して半年間は、原稿の誤りを調べる校閲の仕事をした。翌年に、社会部のフリー(遊軍)に異動になり、悩ましい記者人生が始まった。なりたくて入ったものの、何をやりたいかというのが特段なかった。書きたいことが見つかっても力量がなく、結局、記事にならない。とにかく仕事ができない。そこで、記者の基本があると言われていた警察担当に異動願いを出した。ただでさえ、女性は少ない中で、自分から手を上げないとやらせてもらえないかもしれないという危機感もあった」


女性記者は『名誉白人』?

―当時、女性の社員はどのくらいいたのか

「当時は私を入れて10人。1985年に男女雇用機会均等法が制定され、女性が毎年、1人ずつ採用されていた。バブルの後押しもあって、入社した90年には女性が4人も採用された。85年以降、仕事も変わった。それまで女性記者は婦人欄を担当することがほとんどだったが、人数も増え、社会部にも女性記者が配属されるようになった。時代の流れもあって92年3月、警察担当への異動がかなった」

調整会議で進行役を務める次長時代の与那嶺一枝局長=2016年撮影

―警察担当になって、仕事ができないという悩みは解決したのか

「悩みがさらに深まった。新聞社もそうだけれど、かなりの男社会。女性であることで苦しんだ」

「毎朝、担当課の次席にあいさつに行くと、年配の女性がお茶を出してくれた。仕事もできない新米の私に、大先輩の女性がお茶を出してくれる。そんな身分じゃないのに、これが毎日。本当につらかった。ただ、なぜかを考えた時、自分は沖縄タイムスの記者という立場だから、先輩がお茶を出してくれているんだ、これは『名誉白人』と同じ理屈だなとふに落ちた」

「複雑な状況の中で、女性であること、男社会で働くことの意味をとても考えた。あのころは感受性が豊かだったから苦しかったのかもしれない。今振り返ると、仕事よりも女性であることで悩んでいた。記者人生の中で、あの時間はとても大切だった」

―仕事柄、飲み会も多い。困ったことは

「情報を探りたい時、取材の一環で同僚や先輩を含めて複数で飲むことは度々あった。でも、飲み会が終わると、二人で飲みに行こうと誘われたこともある。そういう勘違いは、かわしながらやってきた」

「夜討ち朝駆けでも困った。幹部の家の前で女性が一人で帰りを待っている。まず、近所の人に不審がられる。でも、いつ帰ってくるか分からないから移動もできない。警察官の妻にも怪しまれる。警官が帰ってきて、家の中に上がらせてくれても、私は正座をして世間話をしているだけ。ストレートにあの事件はどうなったのかってなかなか聞けない。警察官の妻からすると、突然やってきた女性がひたすら世間話をしているのは、尋常な光景ではなかったと思う。私が帰ったあとに、大げんかになった家庭もあったと聞いた。女性であることで、取材先にも迷惑をかける。勘違いされる。結論も出ずに悩みはますます深まるばかりだった」


新聞のことばかり考える記者生活

―一方で、仕事の力は順調についていったのか。転機は

「1年間、警察担当をした後、那覇市担当になった。当時、週に1ページ、一人で自由に作ることができた。でも、どんなページにしたらいいのか全く分からない。先輩にアドバイスを求めても、誰も教えてくれない。そんな中、一人の先輩が、やりたいようにつくればいいと後押ししてくれた」

「自分が面白いなと思うところから記事にしていった。業者の人たちが役所の部屋の前にある箱の中に、なぜ名刺を入れていくのかという身近な疑問から、国民健康保険がなぜ赤字なのかということまで。すると社内から、行政に偏りすぎだという批判が出てきた。実際、紙面をがらりと変えすぎたが、市役所の課長からは赤字の原因を丁寧に書いてもらって、市民が理解してくれて仕事がやりやすくなったという声ももらった。社内より社外に評価してもらって、初めて何かをつかみかけた」

「もんもんとしていた日々から、記事を書くと、反応があって、記者としての喜びを知った。きっと自信が付いたのだと思う。毎日、毎日、1日中、新聞のことを考えていた。怒られても前向きになれて、興味のままに思う存分やらせてもらった」

今までの経験や今後の抱負を語る与那嶺一枝局長

キャリアを重ねた結果、うつ病に

―その後、中部支社に2年、朝日新聞に1年出向。社会部に戻って経済キャップを歴任し、キャリアを積んできた。

「でも、同期が成長している中で、自分は足踏みをしているという出遅れ感があった。結局、自己肯定感が低く、仕事も悩み、経済担当から『くらし』の部署に異動になったころ、うつ病になった。原因の一つは、この自己肯定感の低さ。記者はこうあるべきだと型にはめてしまって無理をしていた。例えば、スカートを着るとなめられると思って、パンツスーツばかり着ていた。走りやすい靴、女性らしくないバッグを選んだ。本当は、レースやししゅうの入った洋服が好きなのに、あえて避けていた。気を張っていたし、自分はできが悪いと必要以上にそう思っていた」

「もう一つの原因は、働き方ががらっと変わったことだ。経済は、他紙にネタを抜いた抜かれたという競争の生活で、不眠がち。でも、くらし班の仕事のサイクルはじっくり型。仕事のリズムややり方が違いすぎて、満足いく仕事ぶりではなかった」

「ちょうど父の死も重なった。年老いていく父を介護していこうと考えていた矢先、末期がんと診断された。老後は楽をさせてあげたいと思っていたのに。仕事もうまくいかず、退勤する車の中でずっと泣いていた。自分で抱え込んで5カ月たったころ、簡単な記事も書けなくなった。後輩に、クリニックに行った方がいいと言われ、休職することになった。11月下旬で、新年号も作らないといけないのに、キャップの私がいない」

「健康を維持できなかったことは大きな挫折。働き方がまずかったということ。ただ、会社に恵まれた。13年前に復職プログラムや制度があることは、ありがたいことで、沖縄タイムスじゃなかったら、クビになっていたかもしれない」

―5カ月で職場復帰。その後は自分らしく働けたのか

「休んで同僚に迷惑を掛けた。うつは再発率が高い。生き方を見直し、今後はこういうことがないように防止していかないとならない。取材のない見出しを付ける「整理部」という部署で復帰した。しかし、今度は円形脱毛症になった。どんどん髪が抜けていった。うつの薬を飲んでいて、心は元気なのに、なんでこんなことになるのか、どうして体は受け止めてくれないんだろうとイライラした。結局、髪の毛はほとんど抜け、ウイッグをつけて出勤する毎日だった。ようやくハゲ止まったのは半年後。自分の中では回復していても、周りから見たらまだまだとんがっていたのかもしれないとも思った」


―その後は社会部のデスクに復帰した。どのような気持ちでデスクの仕事を始めたのか

「記者という仕事は人に嫌なことも聞いたりする。話したくないことも引き出すことが仕事。だから、自分自身の挫折である鬱になったことを隠していては、この先、仕事は続けていってはいけないと思うようになった」

「うつ病と分かって離れていった人もいたが、コラムでうつ病になったことを書いた。沖縄にもうつ病の人はたくさんいる。休職したり、仕事を辞めさせられてりした人もいるだろう。一回の失敗で後がない世の中はおかしいと綴った。人間、誰でも失敗する。失敗しても生きていける社会にしないといけない。そこで、デスクをしながらホームレスの人たちを取材した連載『生きるの譜』を始めた。話を聞いていく中で、多分、まだうつから回復途中の私は癒やされた。そして助けられた。彼らのおかげでうつから回復できた」


自尊心が傷つくくらいなら特オチもいい

―ことしは、財務省の事務次官がテレビ局の女性社員に対して行ったセクハラ問題がクローズアップされた。セクハラ問題への見解は

「経済担当をしていたのが2000年前後。取材相手と同僚と時折、スナックに行くことがあった。当時はチークダンスを踊ることがはやっていて、誘われても『下手ですから』などと言って断っていた。それでも断れないことがあって、踊ったとき、自分がとても傷ついた。喜んで踊っているわけでもないのに、なんで断れなかったのだろうと」

「その時までは、関係性を壊してはいけない。うまく断らないといけないと思っていた。でも、自分がネタを取るために女を売っているとみられると、とても傷つく。ネタで抜かれたとしても、自尊心が傷つくよりはいいやとだんだんそう思うようになった。セクハラをする人のネタはいらない。例え、特オチしてもいいと後輩にも伝えるようになった」

「しかし、私が当事者に抗議してきたのは、2回ほどしかない。しかも、こういう社会はおかしいと記事で書いてこなかった。個人のこととして、いなしたり、避けたりする対応を後輩にアドバイスしてきてしまった。消極的な考え方であり、ことしに入って考えされられた。反省もこめて考えていかないといけない」

「生きるの譜」が貧困ジャーナリズム大賞に。授賞式のようす(2010年撮影)

管理職に求められる説明責任

―私は局長が社会部デスクのころ、入社3年目のフリーの記者だった。いつも適切なアドバイスをもらった。心がけていることは

「論理的に話すことは苦手だが、デスクになったら現場の記者にいろいろと納得してもらわないといけない。いい記事ならほめる。でも、記者に記事を直してもらう時は、理屈を持って説明していくことがデスクとしての説明責任。これはデスクになったらきちんとやろうと決めていた。記事を読んで、どこが足りない、なぜ足りないのか、ということを心がけた」

「昔の新聞社なら、ダメだったらダメという一言でいいだけの世界だった。でも、今の時代は違う。業務も増えている中で、ただダメと言うだけでは通用しない時代だと思う。私はこう思うけど、どう? と提案することも必要だと考えている」

若手記者と団らんする社会部デスク時代(2011年撮影)

―局長になるまでに重ねてきた、自分なりの努力は

「私はとにかくニュースが好きで、家に帰ればドキュメンタリーを見て、ルポばかり読んできた。だから、自然にノウハウは身についてきたのかもしれない。意識をして、努力をしてきたつもりはない。一方で、琉球朝日放送(QAB)の番組審議会の委員も務めている。テレビを見て、ただよかったという訳にはいかない。ここにも説明責任が発生する。最近は、ドキュメンタリーをお休みして、ドラマを全てチェックし、楽しんでいる。特に『おっさんずラブ』はとても面白かった」

―今後、どんな紙面を作っていきたいか

「若い世代は、新聞といえば完全にデジタル。私は紙に親しんできたが、もっと柔軟になる必要がある。基地問題はもちろんやらないといけないが、若い人たちに読まれる記事を発信していかなければならない。個人的には、デジタルファーストもいいと考えている。デジタルの分野ももっと勉強しながら、ネット向けの記事をどうやって作っていくか、考えていきたい」

プロフィル

よなみね・かずえ
1965年、西原町生まれ。琉球大学を卒業後、90年に入社。社会部や政経部などを経て、2014年社会部部付部長、15年から編集局次長。2018年7月編集局長。10年に連載企画「生きるの譜」で貧困ジャーナリズム大賞を受賞。