石垣市石垣の木工職人で沖展会員の戸眞伊擴さん(77)=トマイ木工所代表=は、八重山の自然が育むシマ材(島産の木材)にこだわり続ける木工一筋62年の大ベテラン。シマ材の魅力を次世代に継ごうと普及に取り組むが、伝えたいのは技術や知識だけにとどまらない。作品に使った樹木名を紹介する時は、ふるさと竹富町西表島、技術を磨いた石垣島それぞれのスマムニ(島言葉)も使う。「木と人との大事な関わりを伝えたい」との思いがあるからだ。(八重山支局・新垣玲央)

60種のシマ材が並ぶ自作のボードを前に、その魅力や名前の由来を語る戸眞伊擴さん。名刺サイズに飾った木片には、西表島、石垣島、沖縄本島のしまくとぅば名がそれぞれ書かれている=石垣市石垣・トマイ木工所

 西表島西部の船浮出身で、5人きょうだい4番目の次男。父は戦時中の強制疎開で、戦争マラリアのため48歳で亡くなった。戦後、母や上のきょうだいたちは畑仕事など家のことに掛かりっきりだったため、幼少期の大半を祖母フヤさんと一緒に過ごした。

 「ひろむぅ、みならー(今から)たむん(まきを)ぷしぃ(拾いに)んぎぃきー(行くから)、まんずん(一緒に)いはぁー(行こうか)」。そう言う祖母と一緒に山へ入り、木の見分け方や特徴などを学ぶ日々。島の先輩たちも木々の名や由来を教えてくれた。

 例えばナギ(本島の島言葉でナージ)は、ユカリピトゥヌキャーンギ。「キャーンギ」はイヌマキを表すスマムニ(本島ではチャーギ)だが、琉球王府時代に「ゆかるぴとぅ」(偉い人)が「認めた」ため、この名が付いたという。

 「大量のイヌマキを献上するよう求められた八重山の人たちが足りない分にナギを交ぜて送ったら、ばれなかった。ばれたらすぐ打ち首。でもOKだった。だから、ゆかるぴとぅぬ(偉い人の)キャーンギ(イヌマキ)となったわけさ」

 木工職人の道を歩み始めたのは15歳のころ。母親の働きだけでは経済状況が厳しく、恩師の強い勧めで中学卒業と同時に石垣島へ渡った。田城木工所(当時)で見習い工として働くと、「西表島で関わった木の知識がそのまま通用した」。シマ材への関心はさらに高まった。

 だが復帰後、木工所を取り巻く環境は変わる。大量生産された既製品が本土から入ったことで、1971年まで32軒あった木工所や製材所は徐々に家具販売などに転身。製材所の減少で輸入物のラワン材が入るようになり、シマ材が使われることは少なくなった。

 31歳で独立した戸眞伊さんはそれでもシマ材にこだわった。「島の風土に合うものばかりだし、僕から言わせれば木の肌や木目、強度が外国のものとは違う」と説明。幼少期から慣れ親しんだという思いもある。「島の木に思いがあるから厳しくても我慢して頑張れた」。

 シマ材普及に対する思いは近年、島の若い職人や利用者にも共有されつつある。2015年にはシマ材の加工技術や知識の普及を目指す「八重山材研究モッコク会」を発足。月1回の勉強会や市内で木工ワークショップを開く。

 「手仕事を受け継ぐ人が減っている」という。だからこそ「持てる知識も技術もどんどん若い人に伝え、関心を持たせたい」と戸眞伊さん。「方言も使わなければ僕らの時代で消えてしまう。西表島の方言は特にそう。だからこそ残したい」と話す。