日本の本土より遠く離れた琉球は、尚王朝時代から中国大陸や東南アジアの国々、日本(大和)と国際的な交流、交易を持った影響で、多岐にわたって外来文化を吸収してきた。そのため、料理もこれらの国々の料理法を巧みに取り入れ、それを独自に改良、発展させてきた歴史がよくにじみ出ている。

(イラスト・いらすとや)

 とりわけ14世紀からの中国との交流では、琉球王がかわるたびに中国から冊封使(さっぽうし)という中国皇帝からの使者が大型船で大挙訪れ、記録によると人数は400~500人、滞在期間は半年にも及んだとある。

 その接待は国家間の行事でもあったので、尚王は中国料理習得のため、琉球の料理人を中国に派遣して学ばせた。また、17世紀に入って「慶長の役」で薩摩に敗れると、那覇に薩摩奉行所が置かれた。すると今度は薩摩からの役人の接待のため、料理人を薩摩に送って日本料理を学ばせた。

 この二つの歴史的な出来事は、後の琉球料理に大きな影響を及ぼしたと考えられている。こうして中国の皇帝料理、薩摩の武家料理が琉球の宮廷へと伝わり、それが次第に首里や那覇の上流階級の家々にも伝わった。明治時代に入って日本に帰属した琉球は沖縄県となり、王朝制の廃止によって琉球の宮廷料理はその豪華さを失っていったが、その一部は一般家庭にも普及したのである。

 こうして琉球料理(沖縄料理)は、王朝時代の宮廷料理と一般庶民料理の二つの流れをくんで歩むことになるが、以後は次第に宮廷料理を基盤とした庶民料理が主体となっていく。

 庶民たちは、酷暑や台風などの厳しい自然環境や、過酷な政治環境にさらされながらも、強く美しく生き抜くために数々の料理を編み出し、それが今日一般に言われる琉球料理となっているのである。

 その一例が琉球料理の本質、あるいは奥義の見本とされる豚の料理である。そこには無駄を出さず、材料は常にその土地で調達し、おいしい料理を作る心得として、材料を切りそろえたり、下味を付けたりするなどの下ごしらえの手順もしっかりと組み込まれている。

 とにかく、豚の頭から足の先、血の一滴に至るまで、すべてを無駄なく巧妙に使い切る知恵と発想が凝縮されているのである。代表的な料理に豚肉を煮込んだラフテーやソーキ汁、豚肉を黒ごまのたれで覆ったミヌダル、テビチ(豚足)、アンダンスー(豚肉の油みそ)、中味(豚モツ)の吸い物、ミミガー(豚の耳)、イナムドゥチ、チーイリチー(豚の血の炒め物)などがあるが、新鮮な血は塩と片栗粉を混ぜ、蒸して保存するという方法もある。

 また、琉球料理の神髄でもある「命どぅ宝」、すなわち「人の命を作り、維持する第一のものは食べ物」という考えは、食べ物自体が「薬」(クスイムン)であることも教えている。

 沖縄の先人たちは「薬食同源」、つまり食べ物は薬であるということを、自らの経験を通して作り上げ、それを代々継承し、世界に冠たる長寿の島を作り上げてきたのである。

 そこには島にある材料を知り尽くし、それを使って巧みに調理し、そこからは滋養性、薬効を宿した料理を作り上げ、不老長寿につながる合理性を完成させた、琉球人の知恵の深さと発想の豊かさが垣間見えるのである。(東京農業大学名誉教授)