去年は終戦70年にちなんで戦争体験を描いた。今回は別の写真を見ながら書いている。B29や炎上した幼稚園を全く連想させない。この角度からは情緒的感覚を通して見えるのが、生まれ育った町である。名護湾がよく見えるこの場所は「ナンナンぐすく(城)」と呼ばれ、長い坂の階段の桜並木が実家からよく眺められた。

「ナンナンぐすく(城)」から。母と一緒に名護湾を眺め、詩や日誌をつづりスケッチもした

 名護の現在のオリオンビール工場や東江小学校は以前は田畑や野原で、子どもたちの遊び場だった。昆虫やカエル、ヘビ類が共存し、小川も流れメダカやフナも釣れた。直射日光を浴びて野原や浜辺などを私は天真らんまんに走り回った。弟たちをいじめた男子を追っかけて仕返しをしようとしたら、逆に顔面をパンチされ鼻血が出た。それでも追跡し田んぼに突っ込み目的を果たした。

 小学3年、兄の自転車がうらやましかった。でも足が届かない。「乗れたら乗ってみろ」。兄にからかわれ挑戦した。右手でサドルを抱きかかえ左手はハンドルを切り、股乗りでようやく乗りこなせた。チェーンが何回も外れたが諦めなかった。弟たち2人を前と後に乗せ名護の集落、東江から宮里までの約2キロの1号線を何回も往復できた。

 今思い出しても鳥肌が立ち、同時に自分でもあきれて苦笑している。私は兄弟3人と育った母の一人娘だった。母の仲間たちは彼女に同情した。

 「イェ~ いなぐんぐぁ どぅちゅい。やぁ~ ちむぐりさぬ~(ね~、一人娘なのに…親のあなたが気の毒だね~)」

 「いなぐぬ癖に」「いなご~ あび~ な」(=女は黙れ)。そんな表現が男女両方から聞こえる終戦後だった。母は常に何かを読んだり書いたりで、私たち姉弟の教育に対しては厳しかった。選挙運動や婦人会活動などで多忙だった母の家は、母と同じ境遇の女たちの集まり場だった。

 家事を手伝ったり、私たち姉弟の様子を観に来るオバァが近所に住んでいた。けがをした私を見てすぐ泣いた。木登りして落ちたと正直に答えたら、逆にめった打ちされた。オバァの口癖はいつも「アキサミヨ~ナ~ やなワラバ~ やぁ~とぅじさ~うらんど~!(ホントにもぅ! 嫌な子だ。誰もあんたを嫁にせんよ~)」だった。

 あれから20年後。夫の転勤で沖縄滞在中に私たち家族(夫婦と子ども3人)はよく名護の実家を訪ねた。ある週末、オバァはフクギの幹に腰かけていた。少し見当識が怪しかったが、私をはっきり覚えていた。夫と子どもたちを紹介したらオバァは目を輝かせ、立ち上がり私たちに最敬礼した。

 そして私の主人の片手を握り、さらに最敬礼して方言でこう言った。「アキサヨ~ いぇ~ひゃ~ ひるまさん! やぁ~ とぅじさ~うたさや~(おやまぁ、不思議だね。あんたを嫁にするのもいたんだね~)」。オバァは真剣だった。

 方言を知らなかった夫はオバァが彼に最敬礼し、何を話したかを私にたずねた。私は答えた。「オバァはあなたに、沖縄によくいらっしゃいました。あなたはうちの娘に選ばれて全く運が良い男ですね」

 故郷を慕うとはそのような地域社会の人たちとのつながりでもあろう。あのころは近所皆で子育てをした。現在50歳前後になった子どもたちもオバァをよく覚えている。名護での思い出話になるとオバァのキャラクターが必ず登場する。「か~かみ屋~」のオバァを慕う、今日このごろである。(てい子与那覇トゥーシー通信員)