那覇の山入端さん 本人朗読のCDも

 「るくぐゎちぬあみぬひや ちむしからーはぬ」(6月の雨の日は心寂しくなる)。まるで子や孫に語り掛けるようなやわらかい響きが、聞き手を包み込む。那覇市の山入端利子さん(79)の詩集「ゆるんねんいくさば(夜のない戦場)」に付いている朗読CDの一節だ。山入端さん本人が声を吹き込んだ。5歳の時に体験した沖縄戦の実相を後世に残したいと詩を書いた。筆を取った時、自然と心に浮かんできたのは共通語ではなく、ふるさとの言葉だった。(社会部・西江千尋)

「言葉は生きている。言霊、人々の息づかいが宿る」と、しまくとぅばへの思いを語る山入端利子さん=10日、那覇市首里

全編しまくとぅばの詩集「ゆるんねんいくさば」

「言葉は生きている。言霊、人々の息づかいが宿る」と、しまくとぅばへの思いを語る山入端利子さん=10日、那覇市首里 全編しまくとぅばの詩集「ゆるんねんいくさば」

 1939年、大宜味村田港に生まれた。母は田港、父は那覇市首里の出身。両方の言葉を聞いて育った山入端さんは、自身の言葉を「まんちゃー」と呼ぶ。これまで出版した7冊の詩集は、和裁仕立ての仕事の合間に書いてきた。

 9歳の頃から好きで作詩してきたが、戦の体験をつづったのは初めて。2005年、鮮明に残る記憶を全編しまくとぅばで書いた。丸2日かけて書き終えた途端、不整脈で病院に運ばれた。「戦の世界に入り込みすぎたんでしょうね」と推測するが、それでも書きたかった。「込み上げるものがあって、子や孫には戦の体験を話せない。だからせめて詩で残さないといけない」と。

 田港集落に住んでいた一家は、戦争の足音が近づく1945年4月ごろ、押川の山に避難した。艦砲射撃が山を揺らしてとどろき、昼は岩穴で息を潜めた。より安全な地を求め山奥へとさまよった。

 夜の山中、食べ物を探していると周囲が急にぱっと明るくなった。米軍の照明弾だ。とっさに地に伏せた。「いんにがたがたー ゆるんねんいくさば」(恐怖におびえ、夜のない戦場)

 米軍の捕虜になり、喜如嘉の収容所で頭からDDTをまかれた時の気持ちはこう記した。「なちんなからんくとぅ わらーてぃるういたんどー」(泣くに泣けないから、笑っていたんだよ)。泣きたくても、感情が整理できず涙が出ない。そんな複雑な心情はしまくとぅばでしか表せなかった。

 書いた後で共通語の訳をつけたが、「ぴったり合う言葉がなかなか見つからず、この作業に一番苦労した」という。しまくとぅばでしか表せない感情やニュアンスがあるからだ。

 例えば、田港では会話の頭や最後によく「わいー」と付ける。「はんめーなー、ひーちきてぃへーりよー、わいー(あらまあ、気をつけて帰ってね)」だと、相手を気遣うやさしいニュアンスで使う。悪さをした子どもを親がしかるときも「わいー!」。この場合は強めに言う。

 凄惨(せいさん)な戦場とは対照的に、詩集には故郷の日常をつづった作品も集録されている。「ねーんなて行ちゅる言葉たぁ(消えていく言葉たち)」では新しい家の完成を喜ぶ人々の様子を表現した。「さんしんしかりーちきてぃ やーぬしーすび うゆぇーさびん むらやじこうはねーち うみちとぅうっさたん」(三線で果報をつけて家の完成祝いをします。村はたいへんにぎやかで、とってもうれしかった)

 独特のまじないも出てくる。「きんやよーく るーやつーく」(着物は弱く体は強く)。新調した服に袖を通す前に、母は必ず襟を家の柱にこすり、こう唱えていた。山入端さんも子どもたちに教え、親となった娘は今もこのまじないで健康を祈願するという。山入端さんは「言葉は生きている。人々の息づかい、言霊が宿る。だからふるさとの言葉を聞くとほっとするんでしょうね」とほほ笑む。

 豊かな清流、山、海に囲まれた田港集落。そこに暮らす人々のささやかな日常を、戦が一変させた。「すてぃちぬるーついむにー(蘇鉄(ソテツ)の独り言)」では、戦中戦後の食糧難を見つめたソテツの思いをこう代弁した。「にんぎんたーよー またとぅすてぃちかむるゆぬなかぬいくさや なあーいがにどうやー」(人間たちよ、ソテツを食べる戦争はもう二度と起こしてはいけないよ)