政府主催の全国戦没者追悼式が終戦の日の15日、東京の日本武道館で開かれる。

 先の大戦で犠牲となった約310万人の戦没者を悼み、政府がこの日に追悼式を開くようになったのは、1963年からである。

 当時、沖縄は米国の統治下にあった。琉球政府が「住民の祝祭日に関する立法」に基づいて6月23日(65年までは6月22日)を慰霊の日と定めたのは61年である。

 昭和天皇の「終戦の詔書」がラジオで玉音放送されたとき、沖縄はすでに米軍に占領され、一部地域ではまだ戦闘が続いていた。久米島では8月15日後に、日本兵による住民殺害が起きている。

 NHK沖縄放送局のラジオは放送不能、沖縄新報の新聞は発行停止の状態にあった。沖縄の住民はごくわずかな例外を除いて、「玉音放送」による終戦体験を本土側住民と共有していない。

 52年4月28日、対日講和条約が発効した。「講和体験」も日本本土と沖縄とでは決定的に異なる。

 講和条約が発効し、日本が独立を回復したとき、同条約第3条に基づいて沖縄は日本本土から分離され、米国の統治下に置かれた。

 復帰を求める有権者の声は顧みられることがなかった。

 「住民に重大な影響を及ぼす政策決定において民意が尊重されていない」という状態が、今に至るまで続く。

 急逝した翁長雄志知事が直面したのも、政府や本土側政治家の沖縄戦後史に対する無理解だった。

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 辺野古への新基地建設をめぐって政府と県は2015年、集中協議を重ねた。

 「戦後の強制接収が普天間問題の原点」だと主張する翁長氏に対し、菅義偉官房長官は「賛同できない。日本全国、悲惨な中で皆さんが大変ご苦労されて今日の豊かで平和で自由な国を築き上げた」と反論した。

 全国の人びとが戦後、さまざまな苦労を重ねたことを否定するつもりはないが、日本と沖縄の戦後史を同列に扱うことはできない。

 米国統治下の27年間の間に沖縄住民がどのような被害に遭ったか、官房長官も知らないわけではあるまい。

 翁長知事に強い失望と衝撃を与えたのは、沖縄側の強い反対があったにもかかわらず、安倍政権の下で初めて、政府主催の主権回復記念式典が開かれたことだ。

 那覇市長だった翁長氏は那覇市庁舎の正面入り口や壁に、失望や悲しみの意を込めた紺色の旗を張り巡らし、式典に抗議した。

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 慰霊の日の6月23日、沖縄全戦没者追悼式で、翁長氏は、気力を振り絞るように、平和宣言を読み上げた。

 「平和を求める大きな流れの中にあっても、20年以上も前に合意した辺野古への移設計画が普天間飛行場問題の唯一の解決策と言えるのでしょうか」

 「終戦の日」と「慰霊の日」に象徴的に示される沖縄と本土の戦中・戦後体験の違いを正面から直視し、まっとうな相互理解を育んでいかなければこの国は危うい。