熊本地震の発生から3週間が過ぎた。家屋倒壊や土砂崩れなどの甚大な被害を受けた現地では、今なお続く揺れと避難生活によるストレス、二次被害への不安に苦しむ地域住民がいる。深刻な被害を前に、沖縄の新聞記者として何ができるのか。何を伝えればいいのか。地震直後の被災地を取材した本紙記者4人が、災害の現状や体験を通して感じたことを報告する。

役場の敷地内に届いた水などの支援物資=4月16日午前11時10分ごろ、益城町役場(山城響撮影)

未明の本震後に、ホテルの駐車場へ避難した宿泊客ら=4月16日午前2時半ごろ、熊本市中央区(山城響撮影)

熊本県益城町の住宅街。1階部分が押しつぶされた住宅も多くあった=4月18日午前9時ごろ、同町(新垣卓也撮影)

陥没した道路から飛び出たマンホール=4月18日午前10時ごろ、熊本県益城町(新垣卓也撮影)

震度7の地震で崩れたブロック塀=4月20日、熊本県西原村(比嘉太一撮影)

崩壊した家を見てぼうぜんと立ち尽くす住民ら=4月20日、熊本県西原村(比嘉太一撮影)

地震発生から12日後。体育館には多くの避難者が身を寄せていた=4月26日、西原村の河原小学校体育館(浦崎直己撮影)

阿蘇大橋を崩落させた大規模な土砂崩れ=4月28日、南阿蘇村(浦崎直己撮影)

役場の敷地内に届いた水などの支援物資=4月16日午前11時10分ごろ、益城町役場(山城響撮影) 未明の本震後に、ホテルの駐車場へ避難した宿泊客ら=4月16日午前2時半ごろ、熊本市中央区(山城響撮影) 熊本県益城町の住宅街。1階部分が押しつぶされた住宅も多くあった=4月18日午前9時ごろ、同町(新垣卓也撮影) 陥没した道路から飛び出たマンホール=4月18日午前10時ごろ、熊本県益城町(新垣卓也撮影) 震度7の地震で崩れたブロック塀=4月20日、熊本県西原村(比嘉太一撮影) 崩壊した家を見てぼうぜんと立ち尽くす住民ら=4月20日、熊本県西原村(比嘉太一撮影) 地震発生から12日後。体育館には多くの避難者が身を寄せていた=4月26日、西原村の河原小学校体育館(浦崎直己撮影) 阿蘇大橋を崩落させた大規模な土砂崩れ=4月28日、南阿蘇村(浦崎直己撮影)

<4月15~19日 山城響>未明の本震 恐怖今も

 4月16日午前1時25分。熊本を襲ったマグニチュード(M)7・3の激震に“死の恐怖”を味わった。「このままでは崩れる」。取材のため宿泊していたホテル6階の部屋から必死で外へ逃げた。直後に先輩記者からかかってきた安否確認の電話に平静を装ったが、恐怖でしばらく動悸(どうき)が収まらない。「マブヤー、マブヤー」と自分に言い聞かせ、落ち着かせるほかなかった。「記者としてどう行動すべきか」ということよりも「自分の身の安全を守る」こと以外、頭は真っ白だった。

 14日午後9時26分の地震発生を受けて15日昼、熊本入りした。当初は1回目の揺れが本震と記録されたが、史上初めて震度7を2度観測した熊本県益城町に住む県出身の宮城誠さん(71)は「本震を超える地震はもう来ないはず、と少し安心していた」と振り返る。

 本震発生後、深夜の上空をヘリが旋回し続け、パトカーや救急車のサイレンが鳴り響いた。ひっきりなしに鳴る携帯電話の緊急地震速報と大きな余震が交互に押し寄せ、さらに不安をあおった。ホテルは停電せずにすんだが、電気が消えていたら暗闇の中を無事避難できただろうか。想像しただけで怖い。その夜は部屋へ戻る勇気はなく、一睡もせずホテルの駐車場で朝を待ちながら、地元の避難者に話を聞いた。

 明るくなると、すぐにスーパーやコンビニの売り場から水が消えた。断水でトイレの水が流せず、避難所の簡易便所に通った。取材先とトイレとの往復時間を考えて水分摂取を控えたがとてもストレスだった。食料も足りず、初日の夕食はカップ麺、2日目はポテトチップスだけ。3日目にやっとコンビニのおにぎりを口にした。4日目の朝、益城町の方が入れてくれたあたたかい熊本茶を飲み、少し安心した。

 4泊5日の取材中、予期せず被災した。すでに沖縄に戻っているが、地震速報を伝えるテレビの音を耳にすると、恐怖や不安な気持ちが今も心に広がる。熊本では揺れが続き、益城町では倒壊などの恐れで「危険」と判定された住宅が約半数を占める。倒壊の恐怖から車中泊を続け、エコノミー症候群などによる関連死も出てきた。感染症や食中毒、たくさんのリスクの中で生活せざるを得ない状況がある。

 避難生活が長期化すれば家を失い故郷を離れる人、移住を余儀なくされる人も出てくるだろう。全国から物心両面の支援の輪が広がっているものの、がれきだらけの惨状に、復興までいったいどれだけの月日がかかるのか。住民の表情を思い出すと胸が締め付けられる。

<4月17~20日 新垣卓也>「まさか」に備え大事

 柱が粉々になり、跡形も無くなった家、陥没や地割れが行く手を阻む道路。あまりの惨状に目を疑った。

 熊本県で震度7を記録した本震の翌17日~20日、取材で同県益城町と熊本市に入った。同町内の避難所には、入り口にある靴置き場のすぐ近くまで布団が並び、熱気が充満していた。

 自宅が倒壊していない人も、未明に襲った激しい揺れがトラウマとなり、家屋倒壊の恐怖から駐車場で車中泊したり、空き地にテントを張って近隣住民と身を寄せ合ったりしていた。

 出会った被災者のほとんどが「まさか熊本で」という言葉を口にした。これまで熊本では、大きな地震が頻繁に起こらなかったからだ。沖縄も同じで、めったに大きな地震はない。「だからといって安心してはいけない」。今回の取材を通して、改めてそう感じた。

 益城町では倒壊を免れ、外壁が剥がれる程度の被害にとどまった家屋もあった。周辺住民は「倒壊した家は基礎が弱く、耐震化が進んでいなかったかもしれない」と言う。別の住民は「家具の固定や地震保険の加入など、万が一の対策をしていない人も多い」と現状を教えてくれた。

 住宅の柱や屋根の耐震改修などには、それなりの費用がかかるし、地震保険に加入すれば保険料の負担が増える。しかし、身の安全と財産を守ることを考えれば必要かもしれないと痛感した。

 最近は、家具の転倒を防ぐつっぱり棒や滑り止めシートなど、比較的安価な防災グッズが豊富にある。家具が倒れて圧死したり、逃げ道をふさいでしまうリスクを軽減できる有効手段の一つだ。重い物や落下しやすい物はなるべく低い所に置いたり収納すれば、危険性を減らすことができる。地震は、いつ起こるか分からない。家具の固定や収納の工夫など、手軽にできる防災から始めてはどうか。

 「まさか起きないだろう」の気持ちがあると、防災に供える腰も重くなる。何より大切なのは「沖縄は大丈夫」と油断せず、防災の意識を常に高く持ち続けることではないだろうか。

<4月20~23日 比嘉太一>被災地結ぶ役割実感

 震度7を記録した熊本地震発生から6日後に被災現場へと向かった。

 強い余震が幾度となく続く中での取材。危険な状況だと十分周知している中で、約760キロも離れた現場へと沖縄の記者が向かうのは、新聞記者がニュースを伝えるだけではなく、沖縄と被災地をつなぐ役割を担っているからだ。

 現場はガラスやコンクリートの破片、土砂が散乱し、崩壊した家屋が連なる危険な状況だった。雨の影響で土砂崩れなどの二次災害も懸念される中、熊本に住んでいる沖縄出身者や沖縄にルーツを持っている人たちをあたった。

 西原村内を取材中、沖縄にめいっ子がいるという桂悦朗さん(63)と偶然出会った。26年間住んでいた家を失い、ぼうぜんと立ち尽くしていた桂さん。「私の安否が無事であることを沖縄にいる親戚にも紙面で伝えてほしい」と託された。

 熊本市中央区で沖縄料理店「ぬちぐすい」を営む新里博昭さん(56)=浦添市出身=は地震発生後にジューシーとサーターアンダギーの炊き出しを熊本県民に振る舞った。「ここでウチナーンチュが頑張っているのが自分の励み。店を無事にオープンさせたことを沖縄の人たちにも伝えてほしい」と話してくれた。

 避難生活が続き、過酷な状況の中でも取材に応じてくれる人たちが声をそろえるのは「熊本の今の状況を伝えてほしい」「安否が無事であることを沖縄の人たちに伝えてほしい」の言葉。今回の取材で沖縄の記者が危険な現場へと足を運ぶ意味を考えさせられた。

 これから始まる復興への道。震災から1、5、10年と続く節目の中で、阪神や中越、東日本の大震災同様に今回の地震で発生した災害を風化させてはいけない。そのために報道するのはもちろん、沖縄の記者として何ができるのかを考え続けなければならない。

<4月26~30日 浦崎直己>復興へ 沖縄から支援

 熊本地震発生から約2週間が過ぎた4月26日から30日にかけて熊本県内を取材した。熊本市内は家々の前に粗大ごみの山ができ、スーパーやコンビニ、食堂や居酒屋などは徐々に再開し始め、外観上は日常の雰囲気が戻りつつあった。

 しかし、市内でも被害が大きかった東区や南区などを中心に、小学校のグラウンドには避難する車が並び、避難所でも多くの市民が避難生活を続けていた。震度7を観測した益城町や南阿蘇村の一部の集落では住民のほぼ全員が避難し、壊れた家やがれきがそのままの状態で残された。集落全体が地震直後に時間が止まったような様子だった。

 地震取材を通じて、けがや自宅被害などがなかった人も含めて全員が大きなストレスを受け続けているということを痛感した。

 2度の大地震と余震におびえて自宅に帰れない高齢者。不安を言葉にすることができず、多動になった幼児。家は無事だが、入学2日目で約1カ月の休校となった小学校1年生。鉄道が壊れ、道路が寸断され、通学にこれまでの倍以上の時間がかかる学生たち-。

 被災の程度に違いはあっても、全員が心にも深い傷を負い、日々の生活にも大きな負担を生じていた。「精神的なショックはずっと残る。地震前に戻ることはない」とつぶやく県出身者の言葉が印象的だった。

 取材した県出身者はみな、沖縄からの支援や応援をとても喜んでいた。短期間しか滞在できない後ろめたさを感じていた私は「仕事でも観光でも、来てくれるだけでうれしい。『忘れられていない』と感じるだけでも心の支え」と言葉をもらい、少し気持ちが軽くなり、沖縄からできることを考えようと思った。

 今後は現地の復興に加え、熊本地震の教訓を沖縄でどう生かしていくかが重要になる。島しょ県、亜熱帯気候の沖縄で必要な備えは何か。ライフラインや流通網が破壊される可能性がある中で、各家庭ができる準備は何か。紙面でも情報発信し、改めて考える機会にしたい。