糸満市摩文仁の「平和の礎」には、那覇市出身で東京都内に住む真栄平優子さん(94)の両親ら親族7人の名が刻銘されている。戦前、東京に移住した真栄平さんにとって幸せな沖縄の家族との日常があった事実を刻む数少ない証しだ。だが高齢のため、近年は帰郷もままならず、東京で出会い沖縄に嫁いだ比嘉ゆかさん(47)に礎の追悼を託す。比嘉さんは今年の慰霊の日も、小学6年の長男琉朗(るお)君(11)を連れ礎へ向かう。(東京報道部・宮城栄作、社会部・新垣綾子)

平和の礎で撮った比嘉琉朗君の写真を手にする真栄平優子さん=東京都練馬区の高齢者施設

毎年、平和の礎で真栄平家の慰霊を続ける比嘉ゆかさん(右)と長男琉朗君=沖縄市内の自宅

平和の礎で撮った比嘉琉朗君の写真を手にする真栄平優子さん=東京都練馬区の高齢者施設 毎年、平和の礎で真栄平家の慰霊を続ける比嘉ゆかさん(右)と長男琉朗君=沖縄市内の自宅

 真栄平さんは、首里赤田町にあった酒造所の裕福な家庭に生まれ育った。しかし戦争が近づくにつれ、泡盛造りに欠かせないタイ米などが輸入できなくなり家業はお手上げ。「軍優先で食べ物も無ければ、外ではものも言えない。あんな息苦しい生活はなかった」

 日本郵船で働く夫の房信さんと結婚し、東京に移ったのは1943年。東京も食料不足で、44年末から空襲も激しくなった。翌年3月の東京大空襲時、第2子目の陣痛が始まった。焼(しょう)夷(い)弾で街が燃える中、荻窪にある家から阿佐ケ谷の病院へ。「痛みに耐え何とかたどり着いたけど、本当によく生きていた」と思う。

 戦後は板橋区で再出発した。古里に帰れたのは戦後2年たってから。実家は跡形もなく、敷地には別人が暮らしていた。父親と長兄は首里で亡くなったと聞いたが、母親がどこで息絶えたか分からない。「本土決戦の時間稼ぎとされた沖縄戦ですべてを失った。悔しいやらなんやら」と行き場のない怒りは今も消えない。

 礎にはほぼ毎年通ってきたが、足腰が弱ってからは、沖縄市の比嘉さん親子が代役を果たす。愛媛県出身の比嘉さんは、銀座わしたショップ店員だった20代の時、客で訪れた真栄平さん夫妻に「きれいな首里の言葉が印象的だった」と声を掛けた。以来、約20年の交流。沖縄の男性と結婚後、7年ほど前から戦没した夫の親類に手を合わせるとともに、真栄平家にも線香やお菓子などを手向ける。

 真栄平さんは毎年、比嘉さんから届く「報告」の写真を見ては「こんなに長く生きてこれましたよ。見守ってくれてありがとう」と感謝の祈りを欠かさない。比嘉さんは真栄平さんの思いも込め、今年も礎の前で誓う。「悲惨な沖縄戦、あなた方が生きていたこと、絶対に忘れません」