県議会の居室に玉城義和さんを訪ねると、書籍がびっしりと詰まった書棚を背にしながら、にこやかに迎えてくれた

 ▼政策のポイントや政局の見通しなどを分かりやすく解説してもらい、何度も助けられた。野党時代は論理的な質問で追及し、知事や部長も「玉城さんの時は緊張する」と認める論客だった

 ▼後輩県議らにも「新聞の記事だけを引用して、執行部をただす質問はだめだ」と苦言を呈していたことを思い出す。議員としてのプライドを感じさせる政治家だった。県議会の改革も委員長を務め、議論をリードした

 ▼活躍は議場だけにとどまらない。県議になる前に勤めていた総評時代に培った手腕が買われ、1995年の米兵暴行事件に抗議する県民大会で事務局長を務めた。大会は超党派で8万5千人(主催者発表)が結集した

 ▼豊富な知識と経験を生かし、参謀役の立場で組織の要になった。オスプレイ配備に反対する県民大会で41市町村長や全議会が賛同した建白書をまとめ、その後のオール沖縄の流れをつくったことは記憶に新しい

 ▼今回の県議選でも立候補の意欲を示していたが、がんという病魔に勝てずに勇退を決意。3日午後、名護市内の病院で死去した。67歳だった。亡くなる直前まで、名護市辺野古の新基地建設阻止で奔走した。冥福を祈りたい。(与那原良彦)