名刺には「琉人(リュージン・インターナショナル)」とあった。儀間人志さん(42)さんがロサンゼルス近郊で経営する食品輸入商社の会社名である。

渡米23年、食品輸入会社を立ち上げ活躍する「琉人」の儀間人志さん=ロサンゼルス郊外のオフィス

 「会社を起こしたのは5年前。人生をかけて頑張って経営しようという堅い決心から琉球の人と名付けた」と読谷生まれの儀間さんは言う。

 高校卒業後の1990年、18歳で渡米。母親の知り合いがロサンゼルス郊外でリカーストア(酒屋)を経営しており「どんな所だろうという軽い好奇心から。そのまま居着いてしまい、酒屋では3年働いたが、1992年にロサンゼルス暴動が起こった。2軒あったうちの店の1軒は暴動の影響でつぶれてしまった」と振り返る。

 渡米当初の3年間は不安定で、常に危険と隣り合わせの時期だった。現金商売の酒屋を狙う強盗被害に遭ったこともある。このままでは命が危ないと思い、日本語新聞の求人広告を見て食品会社に入社した。

 その後、マグロを専門に扱う食品会社の創業者に出会い転職。「死ぬ気で頑張れ」と言われて、本当に死ぬ気で働いた。マグロを求めて水揚げされるヨーロッパや北アフリカに赴き、消費地の築地やアメリカ各地に送り込んだ。

 「魚のビジネスにひかれた。醍醐味(だいごみ)は、世界のすし市場が急成長していた1990年代を業界の中で体感できたこと。アメリカだけでなく中国など日本国外でのすしの需要が伸びて、ビジネスに非常に活気があった」と思い出す。

 当時はまだ20代。体力の続く限り、働けば働くほど手応えがあり、早朝4時に起きてロサンゼルス空港に行き、空輸のマグロを受け取ってダウンタウンの倉庫へ運び、仕分けして各地の魚屋へ卸した。

 5年前、扱う商材を魚から冷凍食品に変えて独立。日本から売れ筋の商品を仕入れ、ハワイからニューヨークまで全米の日本食マーケットに卸すのが現在の業務内容だ。

 儀間さんは沖縄について「波の音」を思い出すという。「読谷は海に向かってなだらかに土地が傾斜している。だから、どこの家からも東シナ海が見渡せる。海から聞こえてくる波の音が今も心の中に残っている」

 渡米してもう23年。危険な目に遭っても帰国せず、起業にまでこぎ着けるモチベーションはいったい何なのか。

 「沖縄に帰省すると、友達が私のことを誰かへ紹介する際、決まって『アメリカで頑張っている儀間さん』と言う。そう言われれば言われるほど『もっと頑張らないと』という気持ちになった。今の生活は渡米当初と比べたらまるで夢のようだ。命の危険もないし、やりがいを感じる仕事もある。アメリカで出会った沖縄出身の妻との家庭もある」

 沖縄に残る両親は「アメリカに送り出して良かった。幸せに暮らしていればそれで十分だ」とエールを送ってくれているそうだ。(福田 恵子ロサンゼルス通信員)=随時掲載