ユダヤ人の女性政治哲学者ハンナ・アーレントを描いた劇映画が異例のヒットを記録しているという(22日付文化面)

▼元ナチスドイツ高官で敗戦後、南米で別人として市民生活を送っていたアドルフ・アイヒマンは1960年、イスラエルの秘密情報機関に捕らえられ、同国で死刑判決を受けた。その裁判の傍聴記「イェルサレムのアイヒマン」の著者がアーレントだ

▼アイヒマンはユダヤ人の強制収容所移送を指揮する責任者だった。数百万人をガス室に送った極悪人として注目されたが、被告席に現れたのは小役人然としたさえない中年男。「命令に従っただけ」と繰り返し、無罪を主張する凡人だった

▼アーレントは「凡庸な悪」「悪の陳腐さ」に衝撃を受け、それゆえに普遍性を見いだす。「実に多くの人が彼に似ていたし、倒錯者でもサディストでもなく恐ろしいほど普通だった」と

▼ファシズムの世の中ではアイヒマンは勤勉な官僚だった。ナチの大量虐殺は特別な時代の特別な人間による出来事ではない。いつ、いかなる組織でも起こりうる怖さがある。凡庸な悪は今も身近に潜んでいるかもしれない

▼アーレントは思考停止が凡庸な悪を引き寄せると警告し、考えること、思考を止めないことの重要性を説いた。哲学者のメッセージを今こそ受け止めたい。(田嶋正雄)