バラバラバラ、と土砂が屋根を激しくたたき付けた。焼け焦げた火薬の臭い、あちこちに散乱する鉄製のパイル-。1974年3月2日、那覇市小禄の聖マタイ幼稚園(当時)で不発弾が爆発した。幼児を含む4人が死亡、34人が重傷を負った事故から40年がたつ。(西江千尋)

那覇市小禄の聖マタイ幼稚園の構内で不発弾が爆発。「爆発直後、土に埋もれた子どもを捜しているところではないか」と鬼本さんは話している=1974年3月2日

 当時の園長、鬼本照男さん(85)は、その時の光景をはっきりと覚えている。その日、園では保護者を招いたひな祭り会が開かれていた。午前11時25分ごろ、園児186人がひな祭りの歌を合唱している最中だった。突然「バーン」という爆音がとどろいた。

 園の構内で行われていた下水道工事で、穴を掘った部分が崩れないよう打ち込んだ鉄製のパイルが地中の不発弾に触れ、爆発した。旧日本軍が使用した直径72センチの機雷(敵艦船が通る海中に設置し、触れると爆発する兵器)だった。

 「大きな穴が開き、土に埋もれた子どもの手が見えた」。自分の子どもの名前を叫び、泣きながら必死に手で土を掘る親も。突然の爆発で園児と保護者、約400人が混乱した。

 姉のひな祭り会を参観するため園を訪れ、庭で遊んでいた3歳の女児が亡くなった。工事作業員の男性=当時(57)=は40メートル先の民家玄関先まで飛ばされ即死。重機を運転していた男性=同(45)=は運転席で亡くなった。重さ約600キロのパイルは、現場から40メートル離れた県道を走っていた車に直撃。運転していた男性=同(36)=が亡くなった。パイルは50メートル先の民家の屋根もぶち抜いた。

 事故直後から、遺族や被害を受けた約50人が「事故は戦争を起こした国の責任」と、被害補償を求め何度も国に要請した。しかし国には不発弾爆発事故を扱う窓口がなく、対応さえされなかった。事故から9カ月後に国が出した回答は、責任の所在があいまいな「見舞金」の支給だった。

 「事故から40年たつが、状況は変わらない」と鬼本さんは強調する。2009年、糸満市小波蔵の工事現場で不発弾が爆発。重機を運転していた男性が重傷を負った。県内では今も不発弾の発見が相次いでいる。

 「不発弾は戦争の負の遺産。それを日本の一部の沖縄の人が背負わなきゃいけない構図は、今も続いている。大多数の民意が無視されて、辺野古に新しい基地建設が強行されようとしているでしょう」