「うちのソバはおいしいよ!」。メニューを持った呼び子の声が、立ち上る湯気のなかに響く-。公設市場(Feira Central)にある28軒のそば屋がしのぎを削る。ブラジル中西部の南マットグロッソ州都カンポグランデ市(人口80万人)の風景だ。

沖縄そばをカンポグランデで初めて店で出した友寄英芳さん(右から2番目)、妻シゲさん(前列右から3人目)の家族写真。一番左がアメリアさん=1945年ごろ撮影

自宅で取材に応じる上原アメリアさん=カンポグランデ市内

週末のフェイラ(公設市場)には数千人が訪れ、熱気があふれ圧巻だ。店内には「そば」をアピールする日本風のちょうちんが見える=カンポグランデ市内

「友達同士でよく食べにくるよ」。パスタ感覚でフォークで食べる人も多い

沖縄そばをカンポグランデで初めて店で出した友寄英芳さん(右から2番目)、妻シゲさん(前列右から3人目)の家族写真。一番左がアメリアさん=1945年ごろ撮影 自宅で取材に応じる上原アメリアさん=カンポグランデ市内 週末のフェイラ(公設市場)には数千人が訪れ、熱気があふれ圧巻だ。店内には「そば」をアピールする日本風のちょうちんが見える=カンポグランデ市内 「友達同士でよく食べにくるよ」。パスタ感覚でフォークで食べる人も多い

 同州は沖縄県と姉妹提携(1986年)を結ぶ。人口のわずか2%にも満たない1万人が県系人だが、市場以外にも街のいたるところで沖縄そば由来の食堂「SOBARIA」の看板が掲げられ、2006年には市の無形文化遺産に登録されている。

 沖縄県人がカンポグランデに入植して今年で100周年。海を渡った沖縄そばは、どうカンポグランデに根付き、地元の味SOBAとして息づいているのか。

■    ■

 カンポグランデは動植物の宝庫、世界遺産パンタナール(大湿原)の入り口。気温は年間を通じ20~30度。1973年から住む名嘉正良さん(79)=伊平屋村=は「気候は沖縄とそっくり。だから県人が根付いたんじゃないかな」と推し量る。

 現地日系団体が編んだ移住史によれば、カンポグランデへの県人入植は14年にさかのぼる。鉄道敷設工事の労働者として南米各国から日本移民ら約70人が集まった。

 工事が終了した同年、ペルーから転住した首里出身の山城興昌さんが郊外に農地を求め、野菜づくりを始めたことが最初。以降、県人が続々入植、一大集団地を築いた。

 ウチナー民間大使でもある2世の玉城ジョルジさん(72)は「豚骨や地鳥でだしを取り、小麦粉を練って自宅で食べた。子供のころの楽しみでしたよ」と振り返る。そばは多くの2世が懐かしがる「おふくろの味」だ。

 それが商売となるのは、今から60年前の54年。友寄英芳さん(1901~83年)=那覇市=が経営する軽食店で提供したのが最初だ。

 友寄さんは、邦字紙「パウリスタ新聞」(現ニッケイ新聞)の現地カンポグランデの代理人だった。郊外で農業に従事する移民らは、夜も明けきらないうちに市場で行商、友寄さんの店で新聞を受け取り、そばを食べていたという。

 市内に住む長女、上原アメリアさん(79)は「メニューに掲げたのではなく、店の奥にあった自宅の居間で出していた」と証言する。

 「母のシゲ(宜野湾市)が家でも作っていましたが、父は『サンパウロでそばの作り方を習った』と言っていた。開拓で苦労する仲間に、よりよい沖縄の味を出したかったのではないでしょうか」

 民間大使と呼ばれるほど面倒見がよく、「友寄のターリー」と親しまれた。同年に始まったボリビアの移住で、移住地に向かう移民らを乗せた列車がカンポグランデ駅に止まった際も、おにぎりや漬物などを配った。長旅で疲れた県人らの感激はいかばかりだっただろうか。

 「そばを出したこともあったかもしれません。優しい人でしたから」と話すアメリアさんは、まだ父祖の地を踏んだことがない。

 「2016年のウチナーンチュ大会に参加し、先祖の墓参り、そして本場のそばも食べてみたいですね」と笑みをこぼした。(堀江剛史ブラジル通信員)