「私も小さいころ、両親にこうやって食べ方を習ったのよ」と娘のバルバラちゃん(3)にそばを食べやすいよう切って与えるのは伊系ブラジル人のニーナ・バルガスさん(30)。「アメリカへ留学時、友だちになった東京の子にそばの話をしたらびっくりしていた。オキナワの料理なんでしょ?」

夜間市場の屋台で娘のバルバラちゃん(右)とSOBA(沖縄そば)を楽しむニーナさん=カンポグランデ市内

宮城米子さん

勝連安子さん

「パンもいいけど、そばも食べてね!」と麺を持ち上げ勧めるパン屋の店員。今や沖縄そばはカンポグランデの市民食だ=カンポグランデ市内

日系テニスクラブの婦人部は大半が沖縄県人。資金造成の集まりで腕を奮って提供するのはやはりそばだった=カンポグランデ市内

夜間市場の屋台で娘のバルバラちゃん(右)とSOBA(沖縄そば)を楽しむニーナさん=カンポグランデ市内 宮城米子さん 勝連安子さん 「パンもいいけど、そばも食べてね!」と麺を持ち上げ勧めるパン屋の店員。今や沖縄そばはカンポグランデの市民食だ=カンポグランデ市内 日系テニスクラブの婦人部は大半が沖縄県人。資金造成の集まりで腕を奮って提供するのはやはりそばだった=カンポグランデ市内

 市内の目抜き通りに建つおしゃれなパン屋、ハンバーガーショップなどにもそばは置かれている。今や異国の食べ物ではなく、市民食といえるほど地元に根付いた食となっている。

 南マットグロッソ州観光局の昨年の調査によれば、市内にある専門店は55軒。だが「そばがメニューにある店は数え切れない」と、カンポグランデ沖縄県人会の志良堂ニウトン会長(58)=3世=は話す。そばが広まるきっかけになったのは、青空市場での賄い食が最初だ。24歳まで野菜の仲買をしていた志良堂会長は「仕事が終わって食べる一杯は最高だった」と振り返る。

 1960年ごろ、住み込みで勤めていた日系農協の敷地内にあった自宅で、勝連比呂志さん(故人)=名護市=が組合員相手にそばを提供していた。その後、市場で販売を始める。

 当時、農産物の販売に従事していたのは、9割近くが県人だったため、客には事欠かなかった。しかし、買い出しに来るブラジル人の目をはばかってか、カーテンで覆ってそばを出していた。

 勝連さんの妻安子さん(84)=名護市=は「箸を使ってすするのが恥ずかしいと思ってね。好奇心旺盛なブラジル人が『なにおいしいものを食べてるんだ?』ってカーテンをめくってましたよ」と懐かしそうに振り返る。勝連さんはその後、65年には食堂経営を始めたため、市場での販売は、短い期間で終わった。

 同じころ、59年に移住した宮城勇栄(故人)、米子(78)=東風平出身=夫妻が市場でそば屋を始める。

 「言葉も全然分からないしね。県人相手にできる商売を考えた」ときっかけを話す。終戦直後、沖縄で配給の小麦粉でそばを作って食べていた経験も手伝った。市場が開く水、土曜日の2日間だけの販売だったが、労働はきついものだった。

 午前は朝食代わりになるスナック菓子を作り、昼から次の朝までそばを出した。青空市場だったため、屋台を撤収する作業も大変だった。

 「当初は電気もなくて、市場に掛け合いましたよ。97年に辞めたときにはお客さんはブラジル人ばかり」。そのころにはすでに4、5軒のそば屋が場内にあったという。

 2004年に常設市場ができたときの開場式で、そば業界の先駆者を代表し、安子さんは、鍵を開ける役目を果たしている。(堀江剛史ブラジル通信員)