国のDNA鑑定により、沖縄戦孤児と、生き別れた家族の再会を目指すボランティア団体「ガマフヤー」は、戦後、首里市(現・那覇市)石嶺の福祉施設「沖縄厚生園」(現・石嶺児童園)で暮らした孤児の多くが地元の小中学校に通っていたとして、23日、市に対し、卒業者名簿などを手掛かりに本人と連絡を取り、鑑定を希望するかを確認するよう要請した。(新里健)

「保母や指導員として、孤児たちを園から城北小へ送り出した」と語る品川富子さん=那覇市首里の自宅

「毎朝、園の子どもたちを城北小と首里中へ引率した」と振り返る松堂昌永さん=那覇市繁多川の自宅

「保母や指導員として、孤児たちを園から城北小へ送り出した」と語る品川富子さん=那覇市首里の自宅 「毎朝、園の子どもたちを城北小と首里中へ引率した」と振り返る松堂昌永さん=那覇市繁多川の自宅

 沖縄厚生園は1949年、沖縄民政府が本島5カ所にあった孤児院を統合し、中華民国軍の駐屯地「チャイナ・ホーゼ」跡に開設した。元職員によると50年代後半は、約80人の孤児のうち約40人が城北小学校に、十数人が首里中学校に通っていたという。

 ガマフヤーの具志堅隆松代表(60)は市福祉政策課を訪れ、「戦後70年近くたって孤児も家族も高齢化しており、再会実現は急を要する課題。学校の名簿へは行政しかアクセスできない。プライバシーに配慮しながら連絡する方法を考え、DNA鑑定を望むか尋ねてもらえないか」と求めた。

 同課は「個別連絡は個人情報のハードルが高く難しい上、連絡が来るのを嫌がる人もいると思う。市の広報誌を通じて呼び掛ける方法もある」とした。

元職員「心情に配慮を」

 沖縄厚生園の設立から13年間、保母や児童指導員を務めた品川富子さん(89)=那覇市=は、コンセット兵舎を転用した園舎から毎朝、城北小学校へ孤児たちを送り出した。四つの園舎に乳幼児から小学生まで50~60人が暮らし、5、6人の保母で世話した。「初期はとにかく物不足。食事は1日3回出せたが、中身は充実させられなかった。それでもマナーは教えたし、服の洗濯やボタン付けもしっかりやった」と振り返る。

 1955年から60年にかけて指導員だった松堂昌永さん(83)=那覇市=も毎朝、園の子どもたちを城北小と首里中へ引率した。学校を抜け出して遊びに行く子を教室に戻すため、授業中も周辺を巡った。「やんちゃな子もいたが、みんな明るく活発だった」と懐かしむ。

 学校の名簿を基に、国によるDNA鑑定を希望するかを問い合わせる方法について、2人は「厚生園にいたことを知られたくない人もいる。プライバシーに配慮して丁寧にやった方がいい」と指摘。その上で松堂さんは「自分が誰なのか知りたい、肉親と会いたい孤児は多く、再び家族とつながってほしい。戦争を起こして孤児を生み出した国が鑑定に責任を持つべきだ」、品川さんは「互いに生きて再会できれば最高ですね」と願った。