沖縄戦直後、勝連半島や首里石嶺にあった中国(国民党、中華民国)軍陣地の通称・チャイナ陣地が、米国との協定に基づき、沖縄戦で残された米軍の物資を中国に送る拠点だったことが、日本女子大学助教の高橋順子さん(39)、普天間中教諭の森岡稔さん(39)、県知事公室地域安全政策課研究員の波照間陽(しの)さん(28)の共同研究で分かった。武器を除くトラックや通信機などが渡され、共産党と内戦中だった国民党を支援する目的だったとみられる。3月に日本女子大学人間社会研究科紀要に発表した論文「占領初期沖縄の勝連半島地域における『チャイナ陣地』に関する一考察」で明らかにした。(城間有)

米海軍が沖縄で撮影した中国兵と米軍の戦時余剰品。「BOSEY(ボーセイ)」と記されている(県公文書館所蔵)

勝連半島のチャイナ陣地と予想される範囲

米海軍が沖縄で撮影した中国兵と米軍の戦時余剰品。「BOSEY(ボーセイ)」と記されている(県公文書館所蔵) 勝連半島のチャイナ陣地と予想される範囲

 「チャイナ陣地」は「チャイナ部隊」「チャイナ・ボーセイ(Bosey)」とも呼ばれ、地域史や新聞に散見されるが、実態を分析した研究は初めて。森岡さんが与勝第二中学校に勤務していた時、地域住民からチャイナ陣地のことを聞いて興味を持ち調べ始めた。高橋さんが歴史的背景を分析し、波照間さんが米国の公文書を調査した。

 共同研究は、米国と中国の間で1946年8月30日に結ばれた「中国に対する余剰資産一括売却に関する協定」をほかの公文書から分析。協定そのものは入手できていないが、戦地に残された米政府の資産を中国が一括で買い取る内容だったことを明らかにした。この協定に基づき、チャイナ陣地が設置された。

 住民の証言と地域史の記述を総合した結果によると、勝連半島のチャイナ陣地は47年8月から49年6月までの間、平敷屋や安勢理を中心に、現在の平敷屋交番から与那城まで位置していた。住民に物資を提供したり、食堂に遊びに来るなど地域との交流があり、住民が雇われていたことも証言されている。

 設置された背景には、米国が当時、国民党と共産党に分裂していた中国の統一を望み、国民党を軍事的、経済的に援助したことがあり「余剰資産の対中売却は、その政策を支える一つの方法だったと考えられる」とした。だが、この支援は共産党の批判の的となり、国民党の軍事力に余裕があったことから、協定からは軍需品が除外されることになったと分析した。高橋さんは「研究は端緒を開いたばかり。体験者と諸領域の専門家の協力を仰いでいきたい」と意欲を示している。

 [ことば]チャイナ陣地 沖縄戦の直後に勝連半島と那覇市首里石嶺にあった中国・国民党の陣地。米軍が不用になった車両や建築資材、通信機具、医療設備などを中国へ送る拠点になった。チャイナ・ボーセイとも呼ばれた。

 米国は共産党と対立していた国民党の支援、中国は戦後の経済復興のため、両国で「中国に対する余剰資産一括売却に関する協定」を締結したとみられる。