米軍の余剰物資を中国に運ぶ拠点として、勝連半島に戦後の一時期あったチャイナ陣地について、うるま市与那城屋慶名在住の赤嶺正雄さん(87)=元与那城町長=が「1、2カ月働いていた。仲村2世という人物が物資や働く人を管理していた」と証言した。同陣地の論文を発表した研究チーム(高橋順子さん、森岡稔さん、波照間陽さん)によると、地域住民が働いていたことは分かっていたが、働いていた本人の証言は初めてで、全体像を知る重要な資料になる。

チャイナ陣地で働いた経験を語る赤嶺正雄さん=うるま市与那城屋慶名

 赤嶺さんは1948年ごろ、チャイナ陣地へ行き、米軍のコンセットの鉄骨を再利用可能なものとそうでないものに仕分ける仕事をしたという。報酬は日ごとに、米数合をもらった。

 ハワイから来た「仲村2世」と呼ばれる県系2世が仕事を持ってきたという。赤嶺さんは「仲村2世は、住民のためにツーバイフォーの住宅を1200戸建設してくれた屋慶名の恩人。チャイナ陣地は彼が管理していた」と話した。

 集落と陣地の境界線には鉄条網が張り巡らされ、「線外、線内」と呼ばれていた。「許可なく線内に入ると捕まると聞かされていた」という。また、トクモリさんという満蒙開拓団帰りの人物が、中国語の通訳を務めていたという。中国人の人数は「そんなに多くない。20~30人ぐらいだろうか」とした。

 赤嶺さんは「夕方になると中国の方々はたばこをもって屋慶名に下りてきて交流した。陣地がなくなってから仲村2世もいなくなった。ハワイに帰ったと聞いている」と話した。