沖縄戦から69年。巡りくる鎮魂の季節の中で、かけがえのない人を失った悲しみの記憶がよみがえる。

 「慰霊の日」の23日、糸満市摩文仁の平和祈念公園で県主催の沖縄全戦没者追悼式が開かれるほか、各地で慰霊祭が行われる。

 沖縄戦は勝ち目のない戦(いくさ)だった。日本軍(第32軍)は1945年5月末、首里城地下の司令部壕を放棄し、南部に撤退した。本土決戦に備えた時間稼ぎのためである。その判断が一般住民の犠牲を大きくした。

 軍隊と避難民が混在する南部での戦闘は酸鼻を極めた。足手まといになるとの理由で重症患者は壕の中で処理、あるいは放置され、日本兵による壕追い出しや食料強奪、住民殺害、学徒隊の自決などが相次いだ。

 県援護課の資料によると、沖縄戦の全戦没者は約20万人。このうち一般住民の戦没者は約9万4千人。これは人口統計などから推計したもので、実際にはもっと多いとみられている。

 戦争が終わっても、敗戦という現実は、沖縄に新たな戦争への加担を強いることになった。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争。米軍が投入された戦後の大規模な戦争で沖縄の米軍がかかわらなかった戦争はない。

 「沖縄に戦後はあったのだろうか」。そう思わざるを得ない現実が今もなお、私たちを取り巻いている。

 沖縄戦を体験した高齢者の4割が、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を抱えている可能性が高いという調査結果が2013年に公表された。PTSDの可能性の高い人と沖縄戦を思い出す頻度の間には高い関係性があり、思い出すきっかけは「基地や軍用機を見たり、騒音を聞いたりしたとき」などだった。

 1959年6月30日、石川市(現うるま市)の宮森小学校に米軍のジェット機が墜落し、児童ら17人(後に後遺症で1人死亡)が犠牲になった。

 事故を語り継ぐ活動を行っているNPO法人「石川・宮森630会」の会長・豊濱光輝さん(78)は、当時巡回教師だった。学校は戦場のような修羅場と化し、子どもたちは「戦争がきた」と叫び逃げまどっていた。豊濱さんは言う。「宮森の事故は沖縄戦の延長線上にある。沖縄戦の後、米軍基地が存在し続けた。基地がある限り、沖縄戦は終わっていない」

 私たちは今、「戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない」(中井久夫『樹を見つめて』)という曲がり角の時代を生きている。復帰後、今ほど戦争が現実味を帯びて語られるようになったことはない。

 安倍政権の一連の外交・安全保障政策は、憲法9条の「無力化」によって「戦争のできる国」をつくろうとしている、ようにしか見えない。その影響を最も強く受けるのは沖縄である。

 安倍政権の下で沖縄の基地再編が進み、仲井真弘多知事の埋め立て承認に基づいて名護市辺野古に巨大な米軍飛行場が建設されようとしている。辺野古埋め立てを承認した仲井真知事は、ことし一体どのような内容の平和宣言を発するのだろうか。

 戦後一貫して沖縄に過大な基地負担を強いてきた日米両政府は、一刻も早く理不尽な政策を転換すべきである。

 地域の緊張を高める「軍事要塞(ようさい)化」の道ではなく、「平和の懸け橋」としての役割を積極的に担っていくことが今、切実に県民に求められている。