1945年の沖縄戦の組織的戦闘が終結してから69年。沖縄タイムス社は、住民の証言も少なく、住民の4割約2200人が戦死した旧具志頭村(現八重瀬町)出身者の4~7月の戦没地を落とし込んだ地図から足跡をたどった。研究者は体験者の高齢化が進む中、データ活用が避難民らの足跡や被害の解明につながり視覚的に沖縄戦の実相を伝える学校教材としても役立つとみている。(與那覇里子)

旧具志頭村出身者の戦没地(1945年)

 地図は、GIS沖縄研究室(八重瀬町、渡邊康志主宰)が戦没者の名前を刻む「平和の礎」(糸満市摩文仁)の戦没者名簿を基に、作成した。渡邊さんは「今後、他の市町村でも、活用が広がる可能性がある」と話す。

 地図から、村民の避難経路などを分析した沖縄国際大学の吉浜忍教授は「証言が少なく、戦時中の記録の空白の多い地域。一定の足跡が分かる上に、グラフィック化することで学校の教材としても生徒の関心を引きつけられる」と意義を語る。

 米軍が沖縄本島に上陸した1945年4月から7月にかけて、時系列で具志頭村民の戦没地から背景を読み解いていく。

 4月は116人が犠牲になった。村と首里方面で戦没者を確認。村内では住民が艦砲射撃で、村外では村出身の防衛隊員もしくは軍人が犠牲になった。

 5月は、激戦地「運玉森」のある与那原町近辺で多数の死者。村にいた日本軍が運玉森に移動したことに伴い、村民が防衛隊などで駆り出された可能性が高い。5月の戦没者は705人で、4月の約6倍。

 1018人が亡くなった6月、日本軍が同村玻名城から与座にかけて防衛線を敷いたため、村内から逃げられなかった人と、追い詰められ糸満方面に逃げた人がいたことが読み取れる。

 7月。組織的な戦闘終了後も64人が命を落とした。疎開していた北部や、村に近い玉城村(現南城市)で犠牲者が多い。収容所でマラリアや栄養失調により、亡くなったことが考えられる。

■続きはタイムス+プラスで

 本紙ウェブの「沖縄タイムス+プラス」では、体験者の証言や動画、写真などを交え、村の各字出身者の戦没地図や村史から、住民の足跡の詳細を23日から公開する。[こちらをクリック]