心の奥にしまい込んだ幼い日の悲惨な記憶。封印を解いて語るには、半世紀余の歳月が必要だったのだろう。

 1959年6月30日、旧石川市の住宅地に米軍ジェット機が墜落し、近隣の宮森小学校に激突。児童や一般住民18人が亡くなった事故から55年が過ぎた。

 30日の追悼集会と慰霊祭の前日、宮森小で「大同窓会」が開かれた。事故を語り継ぐ活動を行っているNPO石川・宮森630会の呼び掛けで初めて実現したものだ。当時の幼稚園児から6年生までの在校生のほか、教員や遺族らが集まった。

 証言集「命の叫び」には、当日の様子が記されている。

 1校時、2校時が終わり、ミルク給食の時間になった。コップを持ち上げて飲もうとした時、校庭にコンクリートと鉄の破片が飛び散った。窓ガラスが割れ、子どもの頭や顔に飛び散る。校庭は黒煙で覆われ、叫び泣いて逃げまどう子どもたちで手のつけようもないありさまだった。

 事故現場は凄惨(せいさん)をきわめた。生き残った人も深刻な心の傷(トラウマ)を抱えた。

 同窓会に出席した女性(65)は、当時の記憶を語り「同期生と事故のことを語り合ったのは初めて」と話した。

 当事者や遺族の抱えるトラウマの深刻さを思う。加えて今も米軍機が頭上を飛び交い「事故がまた起きるかもしれない」という恐怖にさらされている。こんな異常な訓練を容認している日米両政府は、道義的にも許されない。基地がある限り、事故は決して過去のものではないのである。

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 米軍占領下の沖縄では航空機事故が繰り返し起こり、多くの悲劇を招いた。

 51年10月20日、米軍F80戦闘機が那覇市牧志の民家に燃料タンクを落下させ、一瞬にして家は炎に包まれ6人が死亡した。62年12月20日、米軍のKB50型給油機が嘉手納村屋良(当時)に墜落、炎上。近くの民家が全焼し、2人死亡、8人が重軽傷を負った。

 復帰後も沖縄国際大学へのCH53ヘリ墜落事故をはじめF15戦闘機の墜落事故などが相次いでいることは、これから先も起こり得るとの警鐘を鳴らしているものだ。

 作家の目取真俊氏は著書「沖縄『戦後』ゼロ年」で次のように指摘している。

 「沖縄戦の戦闘は終わっても、(中略)ずっとアメリカが行う戦争の渦中にあり、実質的な占領下に置かれてきたのではないか。(中略)沖縄にとって、戦争が終わった後という意味での『戦後』は本当にあったのか、と考えずにおられません」

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 尖閣問題など中国の海洋進出に対し安倍政権は軍事的な対抗路線を加速させている。中国や北朝鮮の脅威が持ち出され、戦争への備えを肯定するような風潮もある。

 だが、紛争に発展すれば被害を受けるのは住民である。県民は歴史体験に根ざした皮膚感覚として、その危険性を感じているのである。

 重い負担を抱える沖縄を、将来にわたって「基地の島」にする辺野古への新基地建設は人道上、許されない。日米両政府は目を覚ますべきだ。