「ボリビア多民族国サンタクルス県ワルネス郡オキナワ村」

 沖縄から遠く離れた南米の国に「オキナワ」の地名を持つ場所がある。今から60年前、海を渡った県人たちが、厳しい環境の中、過酷な労働に耐え、苦労に苦労を重ねて、手に入れた希望の大地だ。

 南北に約60キロ、東西に約30キロ広がるこの地は、「コロニア・オキナワ(沖縄移住地)」と呼ばれる。沖縄の全耕地面積を超える5万ヘクタール以上の農地には大豆や小麦が実り、ボリビアの農業を支える。

 移住地に暮らす県系人は800人余り。役場はもちろん、学校、病院など公共施設が整備され、さながら「もう一つの沖縄」である。

 本紙で毎週月曜日に掲載する「海外通信」のページにも、ボリビアの話題は多い。5月中旬に開かれた移住地の運動会の記事には「日本語、スペイン語、ウチナーグチと色分けされたチームごとに、それぞれの言葉でアピールした」との一文があり印象に残った。

 コロニア・オキナワの歴史は、1954年、琉球政府の計画移民として渡った278人から始まる。その後10年間で、584家族、3385人が送り出されている。

 気候も言葉も風習も違う異国では、ルーツを大切にすることが団結につながり、困難に立ち向かう力となる。日本語教育に熱心で、沖縄文化の継承に努めてきたのは、沖縄のことを忘れず、日系人としてのアイデンティティーを育てたかったからだろう。

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 貧困にあえぐ人々が海外に新天地を求めた移民史の中で、琉球政府が推進したボリビア移民は、沖縄の戦後史を映し出す特異な歴史を持つ。

 沖縄戦が終わり、県外や海外から多くの人が引き揚げてくると、沖縄の人口は急激にふくれ上がった。そのころ米軍の基地建設が本格化。人口や食料問題に頭を痛めた琉球政府は、米民政府とともに南米移住計画を模索する。

 沖縄移民の研究調査をまとめた米スタンフォード大のティグナー博士の報告書が59年、琉球政府から刊行されている。そこには「沖縄の青年は共産主義に感化されやすい。海外に広大な土地を求めることは新たな希望を与え、共産主義者の感化に対処できる」という文章がある。

 米軍による強制収用で土地を奪われ、やむを得ず移民した人がいる一方、米民政府にとって移民は基地確保を円滑に進める手段となったのだ。

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 移民のいきさつもそうだが、おのを片手に原生林を突き進んだ最初の移住地で、原因不明の熱病によって15人が命を落とした悲劇が、過酷を極めたボリビア移民の象徴として語り継がれる。

 移住地には10年前、オキナワ・ボリビア歴史資料館が建設され、子どもたちへ1世の歩みを伝えている。

 17日、コロニア・オキナワでは入植60周年の記念式典が開かれる。沖縄からも大勢が駆けつけ、開拓の労をねぎらい、現在の繁栄を祝う。

 地球の反対側で、60年前にあった人々の闘いを、移民をめぐる沖縄の戦後史として記憶にとどめたい。