幼い子どもたちの夢が、希望が、未来が、暗い海にのみこまれた。集団疎開の学童や一般の疎開者ら1788人を乗せた「対馬丸」が米潜水艦に撃沈されてから、きょう70年を迎える。

 犠牲者は1485人(氏名判明分)に上る。わが子を送り出した親は自責の念に苦しみ、漂流の末に助かった生存者も心に傷を抱え生きてきた。

 70年の節目を迎え、犠牲となった幼い命の無念をあらためて思う。同時に、「自分は助かってしまった」と、苦しみや負い目をなお抱く生存者や遺族らの心の内を推し量ると、胸が締め付けられる。

 「子供等は蕾(つぼみ)のままに散りゆけり嗚呼(ああ)満開の桜に思う」

 天妃国民学校の教師として子どもたちを引率した新崎美津子さんが詠んだ短歌だ。

 新崎さん自身は4日間漂流し生き延びた。だが、親を説得してまで預かった教え子を、無事に返せなかった苦悩は生涯消えることはなかった。戦後も県外で暮らし、古里に背を向けるように暮らしたという。

 「死ぬわけにはいかず、生きていかなくてはいけないけれど、せめてだれにも知られずにひっそりと、あの地平線の下で生きていきたい」。生前の証言記録はこうつづる。

 請われて自身の体験を公の場で初めて語ったのは、撃沈から六十余年後。2011年に90歳で亡くなる5年前のことだった。

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 対馬丸が長崎向けに那覇港を出発したのは、1944年8月21日。7月7日にはサイパンが陥落した。米軍の沖縄上陸は必至だと判断した日本軍の要請を受け、政府は女性や子ども、年寄りを島外へ疎開させるよう命じた。

 その狙いは、軍の食糧を確保し戦闘の足手まといになる住民を戦場から排除することだった。社会的弱者を安全な場所へ避難させる考え方ではなく、軍の論理が優先されたのである。

 出航時、南西諸島周辺や南洋群島の海域は、日本軍の物資や兵隊の輸送を断つため米軍の攻撃が相次いでいた。既に危険な海であり、軍もそれを把握していた。

 対馬丸撃沈に厳重な箝口(かんこう)令が敷かれたことも、関係者の苦しみに拍車をかけた。生存者は体験を語れず、わが子を失った親も悲しい胸の内を明かすことは許されない。漏れ伝わってきた撃沈のうわさを確認しようと周囲に聞き回った母親が、憲兵に捕らえられた、という証言もある。

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 那覇市若狭に2004年開館した対馬丸記念館は、学童たちの足跡をたどりながら平和を学ぶ場となっている。ことし5月には、対馬丸遭難者を救助した漁船の乗組員が書き残した手記が、遺族から記念館へ寄贈された。貴重な記録だ。

 対馬丸撃沈は、その後の10・10空襲、凄惨(せいさん)な地上戦へと続く沖縄戦の序章である。

 軍の論理がまかり通り、住民の安全よりも軍事機密保持が優先された時代に何が起きたのか。私たちは実相を知り、過去に学ぶべきである。