「木の天辺(てっぺん)は雨、風、雪、そして太陽にも真っ先にあたる」

ニューヨーク沖縄県人会の会報

 この表現は1905年ごろ最初にニューヨーク(NY)に住み着いたウチナーンチュの一人、照屋ゼンシロウさんの残した言葉だとNY沖縄県人会の発起者から聞いた。私が最初に会長になった2002年だった。

 実はそれ以前の1990年代初期、生まれも育ちもNYの年配の県系2世、アン・カネシロ(金城)さん=故人=に直接聞かされていた。アンさんは照屋さんの娘だ。

 私が沖縄にいるころに務めていた英字新聞モーニングスター社の先輩、仲地政夫さん=故人=に私は電話を掛け、問題解明を必要とする呼び掛けをした。アンさんはその際、私の意図を十分に理解しサポートした。問題はその後、解決に向かったが「女が大っぴらに意見したのは初めて」とアンさんに言われ、木の天辺の話になったのだ。

 名護がまだ「町」だったころ、実家に近い海と山を駆け回り天真爛漫(らんまん)に育った私は、日本独特の上下関係のシステムや男尊女卑の深刻さをさほど知らずに育った。

 大学卒業後すぐ英字新聞社に勤務し、2年後に渡米した私に仲地さんは、女性地位向上の話を度々した。仲地さんは当時、国連の広報局長で、沖縄タイムスの通信員も務めていた。私の良き助言者の一人だった。

 その後、仲地さんが会長になり私を副会長に推薦された。NY沖縄県人会は83年に創立しすでに31年になる。私は2002年に初めて会長になったが、それまでの7人の会長は全員男性だった。その後、06年から14年まで通算10年の会長任務を締めくくり、ようやく次世代へバトンタッチ可能な時期にきた。ウチナーンチュ大会は3回続けて代表を務めた。

 何を始めてもそれをずっと続けるということは、大変な努力が必要である。正直その責務にとらわれ、常に家族を気にしていた。その間、私は覚悟という言葉が繰り返し脳裏をよぎったのを覚えている。継続する、そのことを話題にするために私の好きな日本語の一つ、「覚悟」という定義をベストフレンドにした。

 覚悟という言葉は「覚える」と「悟る」という単語から成り立った複合名詞で、英語だと、覚悟は決心する、同意するなどの定義がまず出てくる。

 英語の定義は意味が軽い。ウチナーで生まれ育ったウチナーンチュとしての私には、覚悟とは決断力、確実性、献身、専念、そして何よりも強い責任と義務をともにした。約束事だと頭に刻まれている。

 当会の先輩たちが当然そのような覚悟で努力してこられた結果が「今日」なのだ。会長として私は今までの経過を振り返ってみると、後悔する事が数々あるが、しかし何よりもまず過ぎた事はそれなりに受け入れ、ただ前進するべきだと思っている。覚悟が原動力になり前進できると信じている。つまり、継続は力なり! であろう。

 当会の利点は伝統遺産である。この共同団体で私たちは耐え抜き、順応し、そして継続している。どこに住んでも、ウチナーンチュの文化、アイデンティティーは常に私たちと一緒である。結局それが私たちの過去、現在、そして未来を最終的に一緒に結び付けるからである。

 会員の友情、サポート、そしてその熱意に感謝している。長い間、当会の代表者として私をサポートし、任せてくれたことに感謝している。ウチナーの歌サンシン、踊り、空手、ウチナーグチ、言うまでもなくウチナー料理など多様な琉球文化を通して連帯感を強調し、この会を継続させていると思っている。

 2世への会長交代は当会では初めてだ。私は当会の顧問および広報係として今後も会のために頑張るつもりである。(てい子与那覇トゥーシー通信員)