「イヤサッサー!」「ハイヤー」とヘーシ(囃子(はやし))を掛け合い、その場で立ち上がって踊りたい-。2月に米国ニューヨーク(NY)のバルック大学アートセンターで開かれた石垣出身のシンガー・ソングライター新良幸人さんらのステージは、聴衆をくぎ付けにして熱狂的に盛り上がった。

ミュージック・フロ厶・ジャパンで沖縄の音楽を届けた新良幸人さん(右から2人目)、下地勇さん(同3人目)ら=2月、ニューヨーク市内(写真・ken Howerd)

 遠く離れても沖縄の文化に誇りを感じる人がいる一方で、NYに住む若い1世の中には琉球芸能や沖縄文化に無関心でウチナー離れも見受けられ、寂しい思いをすることもある。NYに来たのだから、ここに染まろうと懸命なのかもしれない。

 NY沖縄県人会の運営目的に「沖縄の歴史、文化、芸能の普及に力を入れ、その普及の場を提供しセミナーや講習会などを開催する」という項目がある。私は会長として、個人としてもこの目的を優先している。ウチナーンチュとしての原点を維持する民族意識の再確認なのだ。

 私は終戦後の幼少から方言札を首からぶら下げられた世代。空手や琉舞、芝居など芸能、文化に携わる人がアシバー(遊び人)と呼ばれ、良く思われていなかったのを覚えている。

 しかし私は逆だった。盆の時期は舞台にかぶりついて村芝居を見入り、イェイサーの道ジュネーの後を追い回し、隣の集落まで芝居を見に行った。今の名護博物館前の広場で踊っていた青年たちの姿が、今でも刻み込まれている。

 当時、各家庭の親子ラジオは朝6時に「瀧落(タチウトゥシ)」を流し、母が私たちを起こした。それが私の最初のウチナー民族メロディー。小さい頃は嫌悪さえあったが、渡米後はその曲が私の空手踊りの最初の曲になった。練習のために何度もかけたので、私の3人の子には子守唄。子どもたちは今でも最後までハミングできる。

 実は夫に先立たれ、アメリカへ残ることを決めた私たち家族に、名護から夫の葬式に出席した母が条件に出したのが、空手を習うことだった。それもできたら剛柔流。私の夫が沖縄に住んでいた時に修行した空手流派である。

 私と同じ年頃で、戦争で夫を亡くした母だからこそ、女独り身で子育てすることの難しさ、誘惑の多さを知っていたのだろう。空手を習うことで夫を身近に感じ、子どもたちも元気だった父親の姿を意識できる。私を知り尽くし、私の人生の先を見抜いていた。

 幸い、自宅から1時間圏内に道場があった。空手武道がきっかけでイェイサーなど沖縄の文化、芸能にも関心が広がり、それが、県人会員たちとのつながりも容易にしていった。

 今思えば武道、空手、その考え方が私たち4人家族に対し、いかに健全な影響を与え、未来へと導いてくれたか。ウチナーンチュとしての自分の原点を考えると空手は“必須文化”で、心身共に力を与えられた。

 何度か挫折しかけたこともあるが、今では太極拳の型も何十回と繰り返し、「動的禅」として日課になっている。

 空手の発祥地、ウチナーで生まれ育った自分をウチナー芸能文化に救われた、とオバーになって堂々と言える。ウチナー芸能文化にカリー!(てい子与那覇トゥーシー通信員)