100年余り前、多くのウチナーンチュたちが希望を抱いて海外ヘ渡った。私が彼らの苦労話を実感したのは、2008年の日系移民100年記念祭だった。それまでハワイや北米、南米へ渡った1世たちの話は歴史書物の上で観念的なものに過ぎなかったが、彼らの悲惨な体験を聴き、その心情を思い起こすと、今でも書く手が止まる。普段、話すことも、書くことも品切れしない私なのに一日中、沈思黙考の状態になる。

ニューヨーク沖縄県人会には数年前からウチナー系の南米移住家族が入会し、親睦会など各種行事にも参加している=ニューヨーク市

1908年6月に最初の集団移民船としてブラジル・サントスに入港した笠戸丸(ブラジル日本移民史料館提供・共同)

ニューヨーク沖縄県人会には数年前からウチナー系の南米移住家族が入会し、親睦会など各種行事にも参加している=ニューヨーク市 1908年6月に最初の集団移民船としてブラジル・サントスに入港した笠戸丸(ブラジル日本移民史料館提供・共同)

 日系移民100年記念祭はブラジルのサンパウロで開かれた。私は記念祭関連の企画で国際女性フォーラムに米国代表のパネリストとして招かれた。そこには女性たちのほかに、県系2世の年配男性らも参加し、南米へ移住した親世代、つまり1世のことを語ってくれた。

 1908年、笠戸丸で日系人790人が52日の航海でブラジルの南に到着した。ウチナーンチュたちもあの波止場のある町、サントスに降り立った。そこから「金がなる木の農園」へと各地に配置された。しかし、期待と裏腹に、白人や本土出身の日本人からの偏見など予想外の苦痛を体験した人もいた。

 過酷な条件から解放され、故郷へ戻れると考え、波止場のあるサントスへ逃げ戻った。そこで住み着いたウチナーンチュたちの実話に痛感させられたのだ。

 日本行きの船に乗れるのではないかと期待を募らせ、チャンスを待った。

 ウチナーへと続く海を何万回と眺めていたのだろうか。1世たちはチムグクルをウチナーグチで語り、歌三線や踊りで心を癒やした。彼らはウチナーを思いながらその地に定着し、誇り高きウチナーの子孫を残した。

 そんな親を見て育った2世たちの話を聴くうちに彼ら2世の職業が気になった。弁護士とジャーナリストだ。明確に考えを主張し、さまざまなネットワークの中で高いレベルで考え、書くことに長けた人たちだ。彼らがなぜこの職業を選択したのか、その動機は何だったのか。

 なるほど。彼らは1世の親たちの代弁者であり、擁護者なのではないか。1世の親たちは故郷を離れた“第二言語”の地で、言いたいことも十分に表現できず、不公平な待遇を受けて権利を奪われ、搾取されてきた。2世はそんな親たちを見てきたのだろう。

 私には、彼らが弁護士やジャーナリストになり、記録を残し悲惨な状況を変えていこうという強い思いから、彼らの人格形成、職業選択に影響を与えたのではないかと考えざるを得なかった。

 ニューヨーク沖縄県人会には、数年前から南米に移民した県系の子孫たち、特にペルーからの家族が入会し始めた。新年会でカチャーシーの曲が流れると、ウチナー直輸入の会員たちは自然に両手をあげて踊り出す。南米からの子孫たちは、そんなメード・イン・ウチナーオバーや若者たちを見ている。まねて立ち上がる者もいる。

 そのうち、故郷南米の音楽がかかる。カチャーシーに負けないぐらいリズムが速い。県系の子孫たちが踊りだし、祖父母も軽く抱き合ってロマンチックにダンスを始める。若者はパートナーがなくとも実に魅力的に踊る。曲や踊りの動きは違っても楽しむ感情は同じだった。(てい子与那覇トゥーシー米国通信員)