20年前の10月、米ニューヨーク市内でイタリアの航海者コロンブスにちなんだパレードに日本代表としてイェイサー(エイサー)グループが参加した。国連主催の、いわば各国のお国自慢のイベントで、その中で会った沖縄出身で20代後半の青年の言葉が忘れられない。

独立記念日のパレードでエイサーを披露する沖縄県人会=1992年、ニューヨーク市内

 「どうして沖縄、沖縄って気にするんですか?」

 「こだわり」という単語ではなかったが、その質問は「なぜ沖縄にこだわっているのか」という否定的な印象だった。真剣な顔つきで、沖縄出身というより日本本土の出身を強調し、東京から来たと言った。実際、かなり若い頃から東京で暮らし、それからニューヨーク市に来ていた。

 イェイサーグループは20人程度で日本本土の出身者が多かったが、アメリカに住んで15年余の県出身者たちは、青年の質問の動機やアイデンティティー、どのように見られたいのかなど、青年の心理を即座に察し、互いに目配せをしながら笑みを浮かべ、パレードの準備を続けていた。

 私は青年にイェイサー衣装を着せながら「とてもいい質問だから、後でちゃんとお話しましょう」と赤い帯をぐっと締め、肩を軽くたたいた。孔子いわく「二十歳にして学び…」のように青年には質問する知恵があり、意見があるからだろう。向学心の強い青年に見え、むしろ頼もしく感じていた。

 私は当時、とっくに50歳を過ぎ、「おのずから自分の行く道を知るべし…」という状況で、強いアイデンティティーがあると自他共に認めていた。3人の子を1人でウスミジ(潮水)飲みながら子育てを終え、孫1人のババアにもなり、仕事も真っ最中。最初のウチナーンチュ大会も体験し、2回目の大会を待っていた頃だった。 

 私たちの衣装は、赤白青の米国の星条旗の色を倣い、ウチナーイェイサーのデザインで1987年に作り初めた。昔はイェイサー(Yeisaa)と確か、喉もとに振動を感ずる発音をしていたのに、いつの間にか沖縄県が出す公式の資料にもエイサー(Eisa)に変わり、ヤマトゥ読みになってしまったが。

 そうした発音の変化は「方言札」の頃を思い出させ、不愉快になってしまう。おそらく青年は、私がウチナーグチにこだわり、沖縄びいきを意識したことに対し、理解できずに反発したのだろう。

 パレードは期待以上に好評だった。青年もパレードに参加してくれたので、握手しながら感謝した。そしてウチナーンチュとしてのこだわりを、私なりに話そうとしたら、青年ははにかみながら答えた。

 「いいですよ。みんなと一緒に沖縄をアピールする太鼓の音がよく響き、楽しかったです。次も参加させてください」

 翌日、ニューヨークの日系新聞の1面は私たちのイェイサーグループを報道した。青年からもその新聞を受け取った。

 「こだわり」に否定的だった青年との「連帯感」-。これはウチナーンチュ大会で世界から集まって来るウチナーンチュたちが持ち帰る、あのウチナーチムグクルと共通する。ウチナーンチュとしてこだわり、それがウチナーンチュとしての尊厳につながる。(てい子与那覇トゥーシー通信員)