「敵が来襲すれば、断固、せん滅あるのみ」。酒豪の長勇参謀長は、酒の勢いもあって怪気炎をあげた。

 1944年10月9日夕。那覇市・波上の沖縄ホテル大広間に、第32軍司令部の兵団長や幕僚ら配下全軍の幹部と県庁首脳らが集まった。

 10日から始まる司令部演習に参加するため、宮古、石垣など各地から軍幹部が参集したのを機会に、牛島満司令官が軍官民の代表を招き、宴会を開いたのである。

 宴会の後、軍幹部は市内の料亭に場所を移し、夜ふけまで2次会で盛り上がった。米軍による猛烈な空襲が始まったのは酔いの残る10日早朝のことだ。

 米艦載機による空からの爆撃は、午前6時40分の第1次空襲を皮切りに、午後3時45分の第5次空襲まで波状的に続いた。のべ1396機が出撃したという。

 與古田光順さん(80)は、家族とともに、大きな亀甲墓に逃げ込んだ。

 「座ることもできないぐらいたくさんの人たちがぎゅうぎゅう詰めになって、墓の中で12時間を過ごした。煙が墓の中にまで入ってきて、まるで焦熱地獄。永遠の時間のように長く感じられた」

 被害は甚大だった。民間の犠牲者は那覇市民255人を含め330人、家屋の全壊全焼1万1451戸。那覇市では西本町、東町、天妃町、辻町など市域の90%が焼夷(しょうい)弾などで消失した。

 北飛行場(読谷)や中飛行場(嘉手納)など、住民を動員して建設した飛行場がことごとく空襲にさらされた。

 軍事施設だけではない。学校や病院など非軍事的目標も爆撃され、低空からの機銃掃射によって多数の市民が犠牲になった。無差別爆撃と言っていい。

 実際、日本政府は国際法と人道の原則に違反するとして在米スペイン大使館を通して米国政府に抗議している。

 空襲で被災した沖縄戦・民間戦争被害者の会会長の野里千恵子さん(78)は「私の沖縄戦はこの時から始まった」と言う。

 軍の被害も大きかった。優に200人を超える戦死者を出したほか、砲弾、機銃弾などの集積軍需品や、全軍の1カ月分に相当する糧食を1日で失ってしまったのである。

 群れを成して襲いかかる艦載機の大部隊の前では、守備軍の防備はほとんど無力であった。あてにしていた航空部隊の反撃がなかったことは、住民を失望させ、将来への不安をかきたてることになる。

 7月にサイパンが陥落し、そこでも多くの県民が犠牲になった。サイパン陥落によって、絶対国防圏が崩壊したということは、B29による本土空襲が可能になったことを意味する。

 10・10空襲から、きょうで70年になるが、あらためて重く響くのは、日本の近現代史を研究する加藤陽子・東大教授の次の言葉である。

 「サイパン失陥により絶対国防圏が崩壊し本土空襲が現実的なものとなった時点、言い換えれば、日本の敗北が決定的になった44年(昭和19年)7月の時点で、戦争を終わらせなければなりませんでした」

 太平洋戦争後半期に戦争犠牲者が集中しているのはなぜか。制海権、制空権を失い、補給路を断たれてもなお、勝ち目のない戦争を引きずり続けた結果である。

 民間の空襲被害者に対して政府は、戦争の犠牲は国民が等しく受忍すべきだと主張し、訴えを退ける。だとすれば、戦争に敗れ、個人を守りきれなかった政府の敗戦責任は誰がとるのか。

 軍人・軍属と民間人との間の扱いの差はあまりにも大きい。この状態をいつまでも放置していいものだろうか。

 10・10空襲は70年を経た今もなお、後世に多くのことを問いかける。

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 戦後70年にちなんで、来年9月までの約1年間、社説企画「戦後70年 地に刻む沖縄戦」を、実際の経過に即しながら、随時、掲載します。