1944年10月10日、南西諸島を襲った10・10空襲から70年。那覇市は9割が壊滅するなど甚大な被害を受けた。当時の那覇の様子を記した故人の手紙がこのほど見つかり、親族が公表した。手紙からは那覇の街の惨状や、日本軍が住民を鼓舞する時代の様子が浮かび上がる。(島袋晋作)

10・10空襲後、故安元實賀さんが疎開先の家族へ宛てた手紙。那覇の街の惨状が記されている

 手紙は10・10空襲前後、日本勧業銀行那覇支店に勤めていた安元實賀さん(当時38歳、沖縄戦で45年6月に死亡)が鹿児島県に疎開していた家族に宛てたもの。

 孫の比嘉佐和子さん(41)=浦添市=がことし6月24日、実家の棚の中から8通の手紙と、具志堅宗精那覇署長名で発行された「罹災(りさい)証明書」を見つけた。

 「皆元気でいるだらうね」

 こう始まる44年10月23日の手紙では、「自宅は全焼(中略)若狭海岸通り一部、前島、牧志の一部を残して那覇市は(中略)灰燼(かいじん)に帰し、まだ燃えくすぶっているところもある」と報告している。空襲から約1カ月後の11月17日の手紙では、俳句や短歌で那覇の惨状を伝えた。

 「雨宿る 軒ひとつなき 那覇の街」

 「見つむれば彈痕のあり 佛桑花の花のみ紅(あか)き 寺の石垣(崇元寺)」

 日本軍は戦果を過大に、被害を過小に報告し、住民らの士気を鼓舞していた。

 「衣食住 なくて堪へきて甲斐(かい)ありと 皇軍の挙げし大戦果きく」

 8通の手紙を見ると、空襲前までは便箋にペンで書かれていたが、10・10空襲の後は質の悪い紙と鉛筆書きに変わっていく。空襲を機に物資が不足し、困窮していった当時の暮らしぶりもうかがえる。

 安元さんは短歌などを詠んだ手紙の中で、妻の基佐子さんへこう託した。

 「この作品をよく味わってくれ。そして子供達へも聞かせなさい」

 手紙を見つけた比嘉さんは、「10・10空襲から70年。祖父から戦争のことを忘れないように、と言われた気がした。当時の状況を記したこの手紙が平和を考える一助になれば」と語った。(手紙は原文のまま)