大綱を中心に観衆で埋め尽くされた久茂地交差点は、祭りのシンボル旗頭の到着でさらにどよめく。本土復帰前年の1971年10月10日。戦況悪化のため途絶えていた「那覇大綱挽(ひき)」がこの日、36年ぶりに復活した。(新垣綾子)

36年ぶりに復活した「那覇大綱挽」。人々が1号線の久茂地交差点を埋め尽くした=1971年10月10日

故安慶名克光さんが制作した旗頭の模型と、三男元英さん。右端の「葦雁(あしがん)」は戦前最後の大綱挽で新作された若狭町の2番旗だが、装飾が複雑で復元がかなわず「幻の旗頭」だという=那覇市内

36年ぶりに復活した「那覇大綱挽」。人々が1号線の久茂地交差点を埋め尽くした=1971年10月10日 故安慶名克光さんが制作した旗頭の模型と、三男元英さん。右端の「葦雁(あしがん)」は戦前最後の大綱挽で新作された若狭町の2番旗だが、装飾が複雑で復元がかなわず「幻の旗頭」だという=那覇市内

 とりわけ44年の10・10空襲をくぐり抜けた人々の胸には、焦土から立ち上がった那覇の鼓動が響いていた。「口下手で感情をあまり表に出さなかったが、どんなに感激しただろう」。生粋の那覇(なーふぁ)んちゅ、故安慶名克光(こっこう)さんの胸中を、三男元英さん(76)が推し量る。

 那覇市制50周年記念事業として、平良良松市長の肝いりで始まった大綱挽復活だが、資料は空襲で焼失し、特に地域によって設計や装飾が異なる旗頭は、経験者の記憶が頼りだった。そこで集められたのが、克光さんをはじめ金城唯興さんや友寄英春さんら、往年の大綱挽を知る当時60~70代の物作り職人たち。識者を交えた実行委員会が結成され、3人が中心となって東西14本のうち那覇四町と呼ばれた東町や西町、泉崎町、若狭町を含む10本の旗頭がよみがえった。

 10人家族だった安慶名家は、10・10空襲で那覇市若狭町の自宅を焼かれ、克光さんは勤務先の漆器会社も失った。「食べていくので精いっぱい。旗頭の『は』の字も言えない時代だった」と元英さん。再建された会社近くに米軍の廃材で家を造り、極貧の戦後を歩きだした。それでも、琉球王朝時代から慶祝行事などで挽かれた那覇の大綱に対する克光さんの思い入れは強く、60年代からは既に本業の合間を縫って旗頭のミニチュア模型を制作。全体のバランス、装飾の細部まで、徹底して戦前の形を追求していた。

 那覇大綱挽保存会相談役の真栄里泰山さん(70)は「復活に携わった第1世代の執念は、言葉に表せない。その方々がほとんど亡くなり、継承の担い手は第3から第5世代に移った」と話す。大綱は95年にギネス認定され、また市内では小中学校単位で旗頭が作られるまでに。「伝統行事の存在が身近になり、うれしい。ただ」と真栄里さんは続ける。「イベントの一面だけでなく、廃虚からの復興を祝い、平和都市那覇をつくろうと決意を込めた本来の趣旨を忘れないで」

 世界一の大綱と14本の旗頭は今年も、那覇の中心部で競演を果たす。あの空襲から70年。元英さんは「力を合わせて祭りができるのも、平和な世の中があってこそ」と、しみじみ思う。