「今から百年後 貴方がどんな家に住んでいたか どんな車を運転していたか そして幾らお金があったか そんな事よりも 貴方の子孫に 貴方がどのような影響をもたらすか それが 大事であろう」  

帰省中に恩師の中村文子さん(手前)を訪ね再会した時の貴重な写真=1996年5月、那覇市内の1フィート運動の事務所

 そんな標語を良く見かける。親や先生が子どもへ及ぼす影響を指摘し、教訓は我々の人格形成の要素である事を強調している。見る度にある二人が反応的に私の脳裏に浮かぶ。それは母とあるメントァー(Mentor=恩師・指導者)である。実際の体験を通して筆記したい。今から60年前の話で、ぼけないうちに記すべきである。

 1950年代半ば、私は名護で中学生だった。故中村文子(1フィート運動元事務局長)=「ふみ先生」は、文学や漢文を教えていて生徒に常に向上心の話をした。説教ではなく、動機付けである。そのために刺激的な表現で話す。「話せて書く力があるとは 両手に剣」と生徒を勇気付けた。先生の言葉には常に考えさせられた。

 ふみ先生からの孔子や孟子、漢詩の教えは中二の頃。55人程のクラスは、ある土曜日の授業で四ページの漢詩を月曜日までに丸暗記する宿題が与えられた。他にも宿題があるのにそんなの無理だよ-との雰囲気だった。

 帰宅後、私は勉強室にこもり四ページの漢詩を繰り返し朗読した。外で遊んでいる友達の声が聞こえた。月曜日には暗記した漢詩を発表する。必ず出来る。その心身共の熱意は、今でも明確に意識できる。振り返るとそれが私の人生のTurning Point(ターニングポイント)であった。

 江戸末期の文人、頼山陽の「十有三春秋」を和漢混交文の読み方で暗記する事が宿題だった。しかし、大人になって実はその学問の内容を理解するよりもさらに貴重に感じた点に気づいた。ある目的に向かって必死に努力する学習態度が人生の他の分野にも通ずるという事である。つまりその努力の態度は他の習い事にも応用が利くのである。

 ふみ先生と私の母。大正初期と明治末期生まれの他界後の今でも私に学問の道だけではなく物事の選択、それへの遂行・存続する面に影響を及ぼしている。人間少年願望のピノキオの耳元に囁(ささや)くあのコオロギの様に善悪の区別、道義心への影響の要点を指摘している。母親になると自由奔放にはいかない。米国の都会は官能的な刺激の誘惑で充満し挫折感は遠慮なく襲う。何年たっても異文化へ適応しながらの勤務、生活、単位稼ぎ、武道場でもいつ襲ってくるか分からない。

 私の場合は中学の学習態度の覚悟が私の原動力の要素である。メントァーは何らかの形で誰にでも存在し、人によっては只気づかないだけだろう。コオロギは誰の耳元でも囁いている。渡米14年後の夫の急死、貧乏な境遇におかれた4人母子家庭。誘惑の多い環境とイナグさら万事の歳頃に、学んだ堅忍不抜の教え。ふみ先生の哲学は異国で今でもはっきりと宿している。ふみ先生、確かに「40にして惑わず」でした。貴方の教えは永遠の宝です。(てい子与那覇トゥーシー通信員)