70年前のちょうど今ごろ、九州地方は例年にない厳しい寒さに襲われていた。

 熊本県八代市の八代海を望む日奈久(ひなぐ)の街では、連日気温が氷点下まで下がり、玄関脇の防火用水には氷が張っていた。沖縄から集団で疎開した子どもたちは、身を切られるような寒さに震えていた。

 元高校教諭で与那原町に住む新垣庸一郎さん(80)は、与那原国民学校初等科の4年生だった。仲間と一緒に与那原からの第1次学童疎開として日奈久で暮らしていた。

 「せいぜい2、3カ月」と聞かされていたため、持ってきたのは夏服数枚。あまりの寒さに、自分で上着の袖を切って半ズボンに縫い付け長ズボンに作り替えたほどだ。

 南国の子どもたちは霜焼けに悩まされた。「寒さで足指が赤く腫れ上がり、かゆくなってさすっていると皮膚が裂け膿(うみ)が出た。10本の指すべてから」。その足でズックを履き、痛みをこらえて学校へ通わなければならなかった。

 与那原国民学校の第1次集団学童疎開は、1944年8月21日、和浦丸に乗って那覇港から九州へと向かった。船団を組んで出航した疎開船の一隻が米潜水艦の攻撃を受けて沈没した対馬丸だった。

 対馬丸に乗りかけたが、いっぱいで次の船に回されたという。「船は魚雷を避けるためジグザグに走り、爆発音にがたがた揺れた。もう駄目だという感じがずっと続いた」

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 政府は44年7月7日の緊急閣議で、南西諸島での戦闘に備え「沖縄県の老幼婦女子10万人を本土や台湾に疎開させる」ことを決めた。戦局が悪化し、日本の統治下にあったサイパン島が米軍の攻撃で陥落した日である。

 疎開は被害を軽減させるためというほか、足手まといになる子どもらを退去させ、日本軍の配備で不足する食糧事情を改善しようとの目的もあった。

 学童疎開の対象は原則、初等科3年から6年生までの男児。だが実際には高等科の生徒や女児も大勢いた。

 県平和祈念資料館発行の「沖縄戦と疎開」によると、沖縄から集団疎開した学童は5586人。疎開先は宮崎、熊本、大分の3県である。

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 「ヤーサン ヒーサン シカラーサン(ひもじい 寒い 寂しい)」

 親元から引き離され、異郷の地での苦しい体験がこの言葉に集約される。中でも一番の痛みは食べるものがなかったこと。長引く戦時体制で食糧事情は極端に悪く、子どもたちは飢餓状態にあった。

 日奈久に疎開した新垣さんも、道端のごみ箱を開けてミカンの皮を拾いちぎって食べたりした。あぜ道に生える熟していない大豆を口に入れたこともあった。

 「熊本で、お正月だからとおいしいものを食べた記憶がない。ただただひもじくて、寒かった。二度とあのような経験はしたくないし、子や孫にもしてほしくない」

 新垣さんは47年1月に沖縄へ戻る。その時、父親はすでに他界していた。母親は息子のためにと服を用意し出迎えたが、ぶかぶかで着られなかった。疎開していた約2年半の間、身長がまったく伸びていなかったのだ。

 先月28日に亡くなった俳優の菅原文太さんが、死の直前、沖縄を訪れ遺言のように語った言葉が忘れられない。

 「政治の役割は二つあります。一つは国民を飢えさせないこと。もう一つは絶対に戦争をしないこと」 

 戦争末期、国策として強いられた学童疎開。飢えと寒さと寂しさとの闘いは、子どもたちにとって戦争そのものだった。疎開生活を送ったお年寄りの中には、今も霜焼けの痕が残る人がいる。戦争が残した心の傷は消えることがない。

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 戦後70年にちなんだ社説企画「地に刻む沖縄戦」は、10月10日の「10・10空襲」に始まり、来年9月までの間、実際の経過に即しながら随時掲載します。