元ひめゆり学徒の宮城喜久子さんが昨年12月31日亡くなった。86歳だった。宮城さんは1945年、県立第一高女在学中にひめゆり学徒隊として動員された。解散命令が出たあと、糸満市の荒崎海岸の岩陰に潜んでいた。

 6月21日、米兵が現れ、自動小銃を乱射、日本兵を含む4人が即死した。級友ら10人はその場で手りゅう弾の栓を抜き自決した。宮城さんは血だらけの学友を前にふらふらとしゃがみ込むだけだった。

 宮城さんは戦後、生き残った学友と共に若い世代に自らの体験を語り、平和の尊さを訴え続けてきた。その宮城さんも亡くなった学友たちの元に旅立ち、今はいない。

 沖縄戦から70年。沖縄戦体験を語れる人は年々減り続け、今では県人口の2割を切っているといわれる。

 ひめゆり平和祈念資料館(島袋淑子館長)は、修学旅行生を対象にした元学徒の証言員による講話をことし3月末で終了する。全員が80歳を超えた証言員の体力面を考慮した対応である。4月以降は、沖縄戦を体験していない戦後世代の説明員らが体験者に代わって戦争の実相を語り継いでいく。

 体験者が減少していく中で、沖縄戦の記憶をどう継承していくのか。ひめゆり学徒に限らない。沖縄戦では戦前の中等学校の生徒のうち、2300人余が男子は鉄血勤皇隊、女子は看護要員として動員され、その半数以上が亡くなった。生き残った人々も80歳を超え、減り続けている。

    ■    ■

 沖縄戦体験者の4割が、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を抱えているという。

 「空爆のニュース日すがら流れいてむせび泣くなり沖縄の老母」(朝日歌壇、2001年11月26日)

 アフガニスタン空爆のニュースを聞きながら、沖縄戦体験者の老母がその記憶を想起して、むせび泣いているという趣旨の短歌である。

 沖縄戦後思想史を研究した故屋嘉比収さんは「戦争の記憶は時間の経過に関係なく、ある出来事をきっかけとして突然に想起される場合がある」と指摘する(『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす』)。

 嘉手納基地の近くに住み「反戦ばあちゃん」として知られた松田カメさんは、95年に91歳で亡くなった。サイパン玉砕の生き残りだった松田さんは、爆音に悩まされながら「戦争よりこわいものはないよ」というのが口癖だった。

    ■    ■

 安倍政権は憲法解釈の変更で集団的自衛権の行使容認を閣議決定した。戦争の足音が近づいている気配に体験者は敏感だ。沖縄の保守政治家が「保守だけど沖縄の保守だ」といわれるのは、沖縄戦体験があるからだ。「二度と戦争につながるものを子や孫に引き継ぐわけにはいかない」との思いは政治的立場を超える。

 だが、沖縄戦体験者がいなくなったとき沖縄社会はどうなるか。平和を希求する沖縄の心は安泰だとは言い切れない。必要なのは戦争を起こさせないための戦後世代の取り組みだ。